2005年03月31日
三月三十一日(木)
作詞家の阿久悠氏は「あんでぱんだん」というホームページを持っている。立ち上げるとき、スタッフに、縦組みにするようにと注文をつけた。それがどんな難題であるかわからなかったそうだ。
ようやく開設にこぎつけてから、しばらくは、内容に対する反響よりも、どうすれば縦書きにできるかという問い合わせのほうが多かったそうだ。(文芸春秋の日本語特集「手書き縦書き仕事の秘密」から)
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「縦書きは、ぼくであることの証明である。ぼくの、言葉に対する敬意と問題意識の表れである。」と阿久氏はいう。
縦書きすることにより、パソコン、この傲慢な機械に対して、お前は道具だ。ぼくの下僕だ、人間の思考や創造に立ち入るなと言い聞かせるのだと。そうすることで、自分の文体は、変化や変質をしないですんでいるはずだ、と阿久氏は考えている。
(パソコンの横組みは、)阿久氏が、生きて、愛して、悶えて、作り上げた文体を、「修正」してしまうことになる、それには耐えられないと。
パソコンは、手ごわい相手だと承知しているからと、阿久悠氏はのべている。良くも悪くも、これからの日本語を変容させる力を秘めているかもしれない。
作詞家で作家の阿久氏の意見には賛成だ。ぼくは、パソコンを、日本語にもなじめるように、書くにも読むにももっとらくらく、使いこなしたい。多少違う立場から、ぼくは日本語の文章の縦組みを支持している。
まず、ぼく自身が書きやすく読みやすいように、このブログを縦に組んでもらっている。
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阿久氏と同じく、横を縦にすることが、これほどたいへんな作業かはよくわかっていなかった。パソコン草創期のユーザーは、ほとんどエンジニア系か、総務財務経理系か、学生おたく系の諸君だ。かれらは横組みを苦にしないし、いつのまにか、横書きがデファクトになってしまった。パソコン文化になじめずにいた文系のふつうのユーザーが気がついたら、縦組みは異端視されるようになっていた。
日本語の文章の縦組みが異端とは、おかしなことになったものだ。それをパソコン上もあたりまえの日本語環境にもどしたいというのが、ユニバーサルデザイン社会にむかっての、ぼくの願いだ。決して「引かれ者の小唄」ではないと思う。
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だれにも読みやすいパソコン上の日本語の文章は、いまのところ、縦に組むしかないと思う。
横に組まれた漢字かな混じり文は、文字数が多くなると、読みにくくなるのは、ジャーナリズム、出版界では、常識。読者が拾い読みできないからだ。人は、読まない、スキャン(拾い読み)するだけだというのが、海外でも専門家の意見だ。
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こころみに、夕方のキオスクで山積みされているスポーツ夕刊紙を横組みすれば、即、読者は逃げてしまい売れ行き不振で倒産するだろう。
いまだに出版物のほとんどは、縦組みである。読みにくい文章を我慢して読んでくれる人は少ない。もちろん、試験問題のような文章はべつとしてだ。横組みの文章を読みやすくしようとすれば、全体の文字数を制限し、一行あたりの字数も少なくし。改行をひんぱんに多くせねばならぬ。なお、走り読みはこんなんだし、なにより1ページあたりの文字数がかぎられ情報量が貧弱となる。
読み手の効率にくわえて、日本文化の伝統に根ざす文章、古典はもちろん、たとえば、和歌、俳句、経文、小説、随筆などは、情趣のうえでも、横組みはなじまない。
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ウエブサイトでは横組みが常識だが、パソコンに食われて絶滅したワープロでは、縦横自在に組めた。横方向へのスクロールは当たり前だった。いまだに、ワープロの使い勝手のよさを懐かしむ人は、ぼくの身近でも多い。
おおげさにいうと、日本人のための、日本語を使いやすくする工夫が、ワードなどパソコンソフトに不足している。
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日本のサイトには、長文が極めて少ない。短文ばかりである。横組みで「長く書いても読まれないというあきらめがあるのだろう。記事論文の数が、海外のサイトに比べて、その差は歴然である。
文章の入力文字数が英米のそれに比べて少なく、したがってコンテンツが軽く貧弱なのに、おどろくが、それは、読みにくさから来ていると、ぼくは、にらんでいる。「そんなにたくさん書いても読まないよ」という人は多い。
こうもいえないか。
大量の漢字かな混じり文で成り立つ日本語の文章をあえて横に組むことは、読み手に、バリヤ(障害)をつくっていることだ。なんでも、バリアフリーの時代にである。
投稿者 nansai : 2005年03月31日 14:04


