縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2005年04月14日

四月十四日(木)の三

根がけちだから、本を買ったときカウンターにおいてある無料のPR誌を片っ端からふくろにいれてもらい、電車の中で読む。そのなかに、きらりと光る読み物に出会えるときがある。文芸春秋「本の話」から。

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「がん治療に携わっていて、一番悲しいのは、死ななければならない運命の人が、死ぬことを納得していないときである。
もっと生きたい、死にたくないと右往左往する姿をみると、私も同じように振舞う可能性を考え、暗然となる。」(「死生観を確立するために」慶大医学部放射線科講師の近藤誠先生)重いことばだ。こう続く。

「人はいつから死を恐れるようになったのだろうか。
生き続けようとする本能は、人間以外の動物にもある。

しかし、死ぬ間際の犬猫が、恐怖を感じているようには見えない。死に対する恐怖は、思考の中枢、大脳新皮質が発達して作り出されたものなのだろう。」

そうか、と思い当たった。犬猫になればいいのだ。
人はいつから死をおそれるようになったのか。
宗教がからんで問題はそんなに単純ではないが、死に際しては、犬猫の自然のままの対応のほうがましではないか。

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ぼくは「知らぬがほとけ」という言い方が好きだ。
わが国で、いまはやりの「ピンピンコロリ」主義も、死ぬときはわけもわからず、あっというまにおさらばしたいという庶民の願望だ。誰の世話にもならずに。

本屋の書棚をのぞくと、いよいよ高齢者時代到来とあって、出版界は、にわかに、死に関する本を続々と出し始めた。文芸春秋新年号は、 理想の死 を大特集した。

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エッセイストの嵐山光三郎氏は、死ぬための教養(新潮新書)のなかで、つぎのようにいう。
死の恐怖から逃れるための最大の処方箋だった宗教が力を失った今、自分の死を平穏に受け入れるために必要なのは、自分の教養だけだ。単なる知識ではない「死ぬための教養」こそが、自己の終焉を納得する武器になると。

あとがきで、祖母は九十九のときに いままで好きなことをしてきたから、この世に未練はないが、死んだことはないから、死ぬとはどういうことなんだろうねえ、といいながら、死んでいった。こうなると死ぬのが愉しみにさえ思えてくる。 とも書いている。

いわゆる「大往生」は21世紀の最大の願望のひとつではないか。
地球46億年の摂理のまま、ぼくらの祖先バクテリアもアミーバも恐竜も、生きとし生けるものは、ことごとく滅びたわけだ。ただなんとなく当然のように。
いつのころからか、未体験の死に対しては、人間の知能が発達して、人類は、恐怖という「妄想文化」をつくりあげてしまった。これは不幸なことかもしれぬ。
近藤さんは、書評で難波紘二著「覚悟としての死生学」を推薦している。

投稿者 nansai : 2005年04月14日 14:56

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