縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2005年6月 7日

六月七日(火)

新聞はどこもとりあげていないが、六十年前のきょうは、第二回目の大阪大空襲の日だ。都島区は八割が被災、都島区の人口は12万4,565人から1万9720人に激減と伝えられている。「都島空襲を語る集い」が六月五日に開かれている。

昭和十九年から五十回も繰り返された空襲で、大阪府内の犠牲者は、約一万五千人にのぼった。被災家屋340,000戸、罹災者は120万人に達した。そのうち、昭和二十年三月十三日からの八回の空襲が、「大空襲」と呼ばれている。
三月十三日夜、B29超大型爆撃機約270機が大阪上空に飛来した。コウモリのように夜空を覆いつくす大型爆撃機の群れ。想像してみてほしい。約二千メートルの低空から、三時間半にわたり、大量の焼夷弾が落とされた。市街は焼き尽くされ、死者は4000人にのぼった。ほとんどが一般市民だが、痛ましい無差別戦略爆撃の標的となった。

b-29-thumb.jpg

戦後に生まれた人たちは、高齢の口の重い生き残った人たちから聞き取り、インターネットなどで、この史実を確認し語り継ぐ義務があると思う。とくに、戦後生まれの政治家は、昭和六年からこの国やアジアで何が起きたのか、史実をぜひ検証してほしい。
靖国問題がかまびすしいが、歴史認識は、われわれ日本人自身の課題である。そもそも、昭和六年以降この間の戦争で、300万人の日本人、2000万人のアジアの人たちが、命を落とした、という歴史上の事実をあらためて認識することだ。それに日本がどうかかわったのかを、学校も教えてこなかった。長い間放置されたままで、大阪大空襲でなくなった人たちの名簿もまだ整理されていないという。
合祀とか分祀とかいわれるが、無差別戦略爆撃の標的とされて、非業の死を遂げた一般市民の御霊はどう祭られるのか。お国のために、また、戦局末期にいたずらに先延ばしされた指導者の決断のために、巻き添えを食って無言のまま「戦死」した大阪府民は、ああ、一万五千柱にのぼるのだ。それは、さきのJRの事故が百回起きたのより多い死者の数である。

当時、中学生だったぼくは、本州西部で、米軍上陸に備えて、兵隊さんと一緒に陣地構築に駆り出されていた。ぼくが描いた絵は、当時小学校一年生の佐藤泰正さんの「大阪大空襲を見た私」のなかのスケッチに基づいたもの。

「負けていたら、ぼくらは、戦争犯罪人だったな」と、後年、ベトナム戦時の国防長官マクナマラが回顧録の中で、ルメー将軍と語り合い述懐している。ルメーは、戦略爆撃の立案推進者で、マクナマラは当時の爆撃成果評価官だった。ルメー将軍は、のちに日本政府から旭日なんとか章を授与されている。

投稿者 nansai : 2005年6月 7日 00:00