2005年07月29日
七月二十九日(金)
お葬式
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高齢でなくなった知り合いのお葬式に出た。戦前から外地で亡父の部下だった人だが、戦後起業され大きく成功された。会場も広く、かなりの盛儀だった。こちらは親子二代にわたるご厚誼ということで出かけたのだが、奇妙なことに気がついた。
高齢だった当のご本人が亡くなってしまうと、会場のなかの親族参列者、だれひとり、ぼくを知らないのである。当たり前だ。
故人はとっくにリタイヤされていたから、多くの花輪は、現役ばりばりのご子息の勤務先からのものだし、参列者の大多数も、おそらくそうだろう。つまり、葬儀は、跡継ぎの喪主さんの仕切りなのだ。ぼくは、お世話になった故人に会うようなつもりで、のこのこ葬儀に出向いたのだが。
受付には誰も知った人はいない。葬儀社にいわれるままに、「会社カンケイ」(息子さんのだ)じゃなく、「一般」のところに記帳する。お呼びでない?状況のような気がした。
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名簿にのっていたので、ぼくのところへも連絡をいただいたのだろうが、やあ、お久しぶりと声をかけてくれる故人が亡くなられたら、誰一人知った顔のない葬儀では、ぼくの居場所がないのである。
ぼくのような年齢に達すると、こういう奇妙な状況にしばしば出くわすことになる。
むかしの村や町内の部落内で営まれた葬式と、いまのように、数世代に渡り拡散したクモノスのように薄い縁のつながりの上の都会の葬式では、事情が異なってくるのは当然である。
こんな風にも思うのだ。生前のご厚誼を感謝して故人ご本人が連絡をくれるわけはないし、代理の人から連絡をいただいても、欠礼すべきではなかったかと。お呼びでない状況を、事前に察知せねばならないのかも。
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不謹慎だが、ぼくはお経をききながら、辺りを見回し、21世紀のこれからの葬儀(自分のをふくめて)は、変わらねば成らないと実感する。ちょっと違うんじゃないの。これで、いいわけがない。どこかに無理があると。
それは、21世紀では「義理」の感覚が、変貌したからではないか。
向田邦子の「父の詫び状」の一シーン。
保険会社に勤めていた父上の母親の通夜の晩、突然、社長自らが弔問に訪れた。客を蹴散らすように玄関に飛んでいった父親の姿、それは、お辞儀というよりは、平伏に近かったと彼女は書いている。予想もしなかった社長の弔問は、それほどにも喪主たる父親に、おそらく一生忘れえぬほどの感激を与えたのである。
昭和では、ふつうだった、そんなシーンは、もうみられないだろう。
式場で、長々と読み上げられる以下同文の自治体や企業のえらいさんからの紋切り型の弔電。義理というより、マニュアル的慣習にすぎない。故人をいたむという趣旨からはずれて、形骸化してしまった。むなしいことだ。
なにがあってもおかしくない、複雑きわまりない、この世のことだから、いろんな亡くなりかたに応じた弔い方があろう。事情や立場により、悲しみの深さにより、死者を弔う葬儀のかたちが違ってくる。
このごろ、「故人の意思にしたがって」、親族だけですませたとか、あえて知らせなかったとか、献花香典は辞退という告知を、よくみかけるようなった。
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高齢者の場合、当然だし、とてもいいことだと思う。
故人の強い希望だから、世間のしきたり(間違っていることが多い)に反しても、かなえてあげたいというのは正しい。
なにもかも、昔とは違うのだ。
目に涙をためて見送る人の多い葬式と、集っただれもが無表情な葬式とがある。
葬儀だといって、故人となんのかかわりのなかった人たち、多忙なのに義理で集められた人たちに、人生最後の旅立ちを見送られるのも、おたがい、妙な具合ではないか。不自然なことに思える。
「世間体」ではなく、「故人の意思」最優先がよい。遺族も世間体を気にせず自然にふるまうことだ。
今の世の中を見渡して、故人候補も、遺族がうろたえないように、正しい選択を生前にしておかねばなるまい。めんどくさいから、そのうちにといって、先送りせずに。
これからは、ウエブ上に弔問の場を設けてはどうか、と思う。
つまり、希望する人は、だれもが弔辞を述べられるようにするのだ。
遠くに住んでいる人も、都合で集まれなかった人も、ウエブ上なら、在りし日をしのびつつ記帳しこころのこもった弔辞を寄せることができるのだ。
焼香し霊柩車に合掌することだけが、お別れの儀式ではない。
親類縁者以外の学校、職場、遊び、つきあいで、故人にかかわり人生のある期間を共有したひとは、自分史と重なる部分を、長くても短くても、文章にして、霊前にささげればよい。遺族にも喜んでもらえる。
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投稿者 nansai : 2005年07月29日 18:39


