2006年01月25日
一月二十五日(水)
「トリスバー」時代
年をとってちょっと残念なのは、かつての飲み友達が、櫛の歯をひくように年々へってゆくことである。
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引退して、それぞれの城に引きこもる。年老いて、五体満足なのはそうはいない。酒量が落ちるのはしかたがない。名うての大酒飲みだったのが、体調をくずして禁じられたり、あちこち手術したり、運の悪いのは亡くなったり、いろいろである。若いひとたちがすり寄ってくることは、まずない。当然のことながら、飲み友達は、へる一方である。
竹馬やいろはにほへとちりぢりに 万太郎
幼友達を懐かしんだ久保田万太郎の句である。
昭和三十年代、ぼくたち安サラリーマンたちの「竹馬」は、トリスバーの止まり木だった。
会社帰りのぼくらは、毎晩、群れて、呑んだ。駅前の裏通りが多かった。へべれけになっても、すぐ終電車に乗れる。トリス「バー」といっても、ゆったり座る席はなく止まり木に腰を下ろす。
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飲むのは、 トリスとか、ニッカ、オーシャンの当時の二級ウイスキーだ。女性が客席につかないから、まあ、安かったね。つまみもろくなものはなかったが、安月給でも、安直にいっぱいやれた。なりふりかまわぬトリスの掛け声は、
「うまい安い」。ウイスキーの大衆化だった。
ウイスキーといっても、二級は、課税の便宜上か、原酒混合率5%以下、つまり0%でも「ウイスキー」と名乗れたと、サライ一月十九日号で読んだ。(ぼくらは、原酒のまにあわせものと本物と区別する知識も味覚もなかった。)
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映画でしか、酒場の雰囲気に接していないぼくらには、飲んだことのないほんもののスカッチやバーボンとの味の差なんかわかるわけがない。
トリスやニッカ、オーシャンの、ハイボールで酔っ払って大満足だった。北新地の本物のバーとちがって、アマチュアの女性バーテンダー?がカウンターの向こうにいる。客席側にはでてこないのが原則だが、カウンター越しに話がはずんだりすると、うれしくて通った。
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水割りというしゃれた飲み方が定着したのは、後の話だった。メーカーも、ハイボールの宣伝に忙しく、水割りは教えていなかった。
そういえば、ぼくが最初に酒屋で買ったトリスのビンは、しわしわの紙でまいてあって、ご親切にも、ウイスキーの飲み方が記載されていたなあ。友人とハイボールをそのとおりに作って飲んで、ひどく酔っ払いひどい目にあった。アルコールの度数を知らなかったからだ。
角、だるま、ジョニ赤などは、高価で手に入らず、夢のまた夢の存在だった。昭和三十年当時の上司が社用で連れてきてくれたスカッチウイスキーのショットバーがある。遺跡のような堂島の地下で、いまなお営業している。
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当店の財産と自称する顧客名簿は、独特の、名刺をはりつけた客の顔の写真アルバムだ。(平成の今では、過去帳のようなものだ。)個人情報保護などおかまいなし、客が、みな先客の写真をひっくりかえして眺めている。自分の写っている古い写真が見たければ、ここへくればよい。
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仲間といっしょに写真を撮ってくれ、と客のほうがリクエストするのだ。残してまずい写真もあるだろうに。もう時効だが。
暗い店内で、バーテンが、三脚を立て、いまや骨董のニコンの名器SPで、フラッシュたかずに息を止めて長いシャッターを切る。この儀式を半世紀続けて、戸棚いっぱいの膨大な冊数の古アルバムが残った。アルバムは、寄る年波で、いたんで背中のリングが外れかけている。
古いアルバムに残された何千人の写真の大半は、転勤や退職で、もう店に来られなくなった客だ。四十年前幽霊のようにやせた若いぼくの顔も、色あせた名刺とともにセピア色の写真に残っている。アルバムのなかで、いまやぼくがいちばん古参の客の一人だそうだ。
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ときめくサントリーも、当時は、「洋酒の壽屋」の時代で、堂島の小さな洋館に本社があった。ぼくらが洋酒を覚えたのは、トリスバー全盛期、昭和三十年代のはじめだ。敗戦の混乱がようやく落ち着き始めた頃、若くて「教会のねずみのように」貧乏だったぼくに刷り込まれた安い酒の味が、いまだに、ぼくの舌をグルメとは程遠いものにしている。でも、なにを飲んでも、酔っ払えたし、いい気分だったなあ。
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時はうつり、焼酎やビールに押されて、さいきんはウイスキーが売れなくてメーカーもあわてているそうだ。
電線のすずめのように止まり木に並んでいた飲み友達も、いろはにほへと、・・・・散り散りに、か。
つれづれに描きなぐった酒飲みの絵を、脈絡なくぞろぞろ並べてみた。
投稿者 nansai : 2006年01月25日 16:50


