縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2006年11月22日

十一月二十二日(水)

教育とは、天職探し?
教育が、ひときわ、声高く論じられている。愛国心は、さておこう。
一生を通じてみれば、教育は、自分自身が、農夫のように、自らの経験という畑に知恵と知識の種をまき、育て、収穫することだと思う。

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かえりみて学業に倦み怠惰であったぼくである。学歴が、なんぼのもんじゃとえらそうなことは、とてもよういわん。
だが、生きてゆくための学びは、自己責任だし、基本は、自学自習。ぼくの文章も絵も、どなたさまか、人様のみようみまねである。
あらゆる動物と同じく、子が生き抜けるように、親は、その手助けをし、親のルールで、幼いときにしつける。

学校教育は、その一環にすぎないと思う。
優れた指導者(もし、めぐり合えたらすばらしい)は、その種をまく心構えを教える人ではないか。社会に立ち向かう姿勢を教える人ではないか。
明治の元勲たちの学んだ松下村塾で、吉田松陰が門弟に教えた期間はわずか数年だった。革命期に、門人たちは、自分で自走して学んだのだ。「青年よ大志を抱け」のクラーク先生も札幌農学校で教鞭をとったのは、たった八ヶ月だったという。

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問題は、受験という制度である。人の能力を査定するのに、中国の「科挙」の制度が、現代にそのまま生き残っている。いい知恵がないのだ。
633の三つの「ふるい」にかけて段階的に、学力の格差を査定する。最終学歴で、ということは、十八才で合格した学歴で、ひとの将来の人生の開発能力を便宜的に、判断し査定してしまう、世の風潮に乗じている。
今の教育は、とうとう有名大学を究極の目標とする受験対策技術に落ち着いてしまったのではないか。なかなか精緻な技術のようである。

これからのこどもたちの人生は、超多元多様多種競技のオリンピックである。ふつうの子には、ぼくがそうだったように、パラリンピックかもしれない。
そんな人生オリンピックで必要なのは、有名校を目指す受験対策技術の習得だけではないはずだ。
競技種目をもっと増やし、選択の幅をひろげることだ。多種多様な、若い人の生きる可能性を計る「ふるい」がたりない。ふるいの網の荒さが、かたよっている。いそいで「ふるい」の数を、もっともっと多種多様多段階に増やす必要がある。
有名大学を頂点とする受験科目の「履修」習得は、暗記力のすぐれた秀才にとっては、おそらく、へでもないだろう。全体の3%くらいだろうか。
大多数の普通の子には、生きてゆくのになんの役に立つか判然としない科目は、興味がわかないから、学習に負荷が懸り過ぎて、ちんぷんかんぷん、身が入らないのは当たり前だ。

いまの教育は、選別される技術の習得に過ぎない。
受験で人の能力を選別するが、それはなんのためか。一国をリードするエリートたちの選抜。それは、いいだろう。
その他大勢(ぼくがそうなのだが)にとっては、教育とは、なにか。
二十一世紀、このせちがらい競争社会にあって、教育とは、おのおのがなんとか自分の能力に応じて、社会で生きぬくための技術と知識を習得する可能性を発見し、はぐくむ場と機会でなければならない。
それに民主国を維持してゆくための市民。または有権者としてのモラルと常識も身につけてほしいものだ。
スポーツになぞらえれば、のぞましいのは、ゴールがあちこちに無数にある生き残り競技だ。参加できて、さまざまな表彰台に、自分が立てる。めいめいがそこそこの幸せの栄冠を自分にわたすオリンピックだ。自分ひとりしか参加しない競技もあるだろう。数多くの学び手がひしめき合うのだから、ある種のパラリンピックでもあるのだ。

能力格差は、あってあたりまえだ。
教育を、学力でなく、スポーツにたとえるとわかりやすい。競い合う運動能力の格差は、生まれながら歴然としている。
生来のDNAの差もある。幼いころからの特訓も誰もが宮里や松坂や高橋になれるわけでないのは、幼稚園段階で納得できる。受験で選別される学力競争も、全体の5%くらいの層は、だまっていても、ゆうゆう予選通過し勝ち抜けるだろう。

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問題は、大多数の、普通の子だ。ぼくのように。
教育の最終目的を、いい大学に受かることと、親も教師も思いこむことが、もろもろのきしみとまさつをうんでいる。
このせちがらい21世紀の競争社会では、格差はますますはげしくなるだろう。
とすれば、教育の最終目的は、この格差社会に生き抜く手段、つまりそれぞれの能力に応じて、食べてゆける職業か技術に出会う手助けをすることではないだろうか。
単に食べてゆけるだけでなく、できれば、そのひとだからできる、満足できる仕事、職業につきたいものだ。それは、その人にとっての「天職」である。
教育とは、つまり「天職探し」ではないだろうか。
だれもが勝ち抜きたいと願う受験戦争と一線を画した、はみ出したところにも、天職に出会う機会がころがっているはずだ。そして、一生かかって、天職を探す人生もあるかもしれない。

わが国の教育制度も、おそまきながら、受験対策にそれすぎた方向から、もっと、多種多様多元のパラリンピック競技種目に対応できるよう軌道修正されてゆくのではないか。少子の時代、大学が経営不振に陥っている今が、改革のチャンスだ。

いじめこそ、教育のひずみときしみに起因していると思う。教育の仮目的と化した、ゆがんだ受験戦争の裾野が小学校までひろがり、ふつうの人生でさほど意味のないはずの学力格差で差別される。その反発からいじめと校内暴力が生まれた。幼い戦死者が出始めている。いたましいことである。

投稿者 nansai : 2006年11月22日 18:09