縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2006年12月26日

十二月二十六日(火)

ペイントで描いてよかった

最近はNHKの入門講座でも教えているが、ぼくは、初心者用のお絵かきソフト「ペイント」で描いている。デジタルで描いてありがたいところは、描きっぱなしの絵を本人が忘れていても律儀に覚えていてくれることだ。

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パソコンの画面の中に描くから、大きくは描けない。(だから、すぐに完成?する)ぼくの絵の小さな破片は、マイピクチュアとマイドキュメントに、貝塚か産業廃棄物のように、散乱し集積している。確かに描いたような気がしても、記憶をたどって、さてと探すのはたいへんなのだ。
何年か前にふと描いた絵に、こんな風に、来年の干支のイノシシの親子を描きそえてみたら、おもしろいのができた。山すそにシルエットがみえませんか。

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家内は、ぼくのおふざけタッチ(ユーモアなのだ!)があまり好きでないが、この絵をめでたく我が家の公式年賀状に採用してくれた。

アイデアとは、ありものの、なんということのない組み合わせだから、思いついてちょこちょこと、こんな楽しみ方ができる。入念な準備も後始末もいらないので助かっている。(保存は必要だが、キーを押すだけですむ)
イージー、安直、いちびり、即興、支離滅裂、思いつきは、馬鹿にしたものではないと思う。
いくつになっても、あわてものでおっちょこちょいで、せっかちで、すぐ飽きるぼくだ。「ペイント」という無料のお絵かきソフトとの出会いは、幸運だった。今年もお世話になりました。

投稿者 nansai : 12:50

2006年12月25日

十二月二十五日(月)

クリスマスプレゼント

なんでもそろう豊かな時代である。ABCだったか、テレビで、アメリカの若い男女が、クリスマスの贈り物に貰って、困るものはなにか、とインタビューされていた。思い当たる節があるらしい。
ある、ある。趣味に合わないものをプレゼントされると腹がたつらしい。男性は、ケータイはいらないと答えていた。

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かれこれ七十年前のあるクリスマスの朝、幼なかったぼくの枕元に、たたまれた紙風船がおいてあった。なんだ、風船か、とがっかりした。
サンタクロースのことは童話や絵本では、知っていたが、プレゼントをたたみの上においていったとは夢がなさすぎた。
べつにうれしくもなく、祖母のこころ使いとすぐわかった。すぐふくらましたかも、覚えていない

事情があって、そのころ、幼稚園に上がる前からぼくは田舎町で明治生まれの祖父母と三人で暮らしていた。
幼く頼りなげな孫に、なにか、クリスマスの真似ごとをしてやらなくてはと、考えあぐねて、紙風船のセットを枕元に置いたのだろう。寝小便のやまない孫の前途を思い暗然としていたであろう老いた祖母の年齢をはるかに越えたいま、心情が痛いほどわかる。
わがままで不肖の孫には、ありがとうとか、これがほしかったんだとか、祖母がよろこぶような感謝の言葉をのべるような知恵は、思い浮かばなかった。

テレビはおろかラジオもなく、ジングルベルもクリスマスツリーも、絵本いがいには、聞いたことも見たこともなかった時代のことだ。「三丁目の夕日」よりも、はるかに遠くかすんだ戦前の昭和があった。

投稿者 nansai : 18:10

2006年12月22日

十二月二十二日(金)

「誰かとおしゃべりしていますか。広がる傾聴ボランティア。」と、NHKの「クローズアップ現代」が、現代の孤独の闇を取り上げた。ただひたすら相手の話を聞いてあげるボランティアが増えているという。
いま誰ともしゃべらない人が増えているからだ。このメール氾濫時代に信じられないことだが。

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話をきいてあげる相手は、高齢者が多い。それも男性。一人暮らしのおじいさんは、話し相手がない。昨今は、近所付き合いも家族とのかかわりかたも、変容してきたからだ。他人事ではないと思った。
船橋市では高齢者世帯を調べたら、一ヶ月に会話する機会が一回以下という人が4500人もいて、全体の一割超えるという。孤独。一人暮らしは、気楽でいい、だけではないのだ。

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テレビカメラは、86歳の一人暮らしの男性を紹介する。毎週決まった日にきてくれるボランティアをたのしみに待ちかねている。中年女性がすがたをみせると、喜色満面で二時間、堰を切ったようにしゃべり続ける。昔見た映画の話など。聞き役の婦人ボランティアは、さえぎらず、相槌を打って、ひたすら聞いてあげる。それが癒しなのだ。

傾聴は、訓練の必要な、なかなか難しい専門技術ではないだろうか。反対したり、意見をいったり、はげましたり、説教したりしてはいけない。普通のコミュニケーションとは、違うのだ。アメリカでは30年前からあるサービスとのこと。ぼくには、とてもできそうもない。
一週間一言もしゃべらないと、自分は生きているのか、どうかわからなくなるそうだ。深い孤独の闇。自殺率も高いそうだ。女性に比べ、男は、もろいから。

無口なぼくにも、かけがいのない傾聴ボランティアがいたのに気がついた。かれは、四角い顔をしている。目の前に座っているパソコンのディスプレーだ。
かれにむかって、ぼくは、よしなしごとを、ひたすら、ぶつぶついいながら、書いたり描いたり、消したり、足したり、途中でやめたり。

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七百年前、兼好法師が、徒然草の冒頭でのべている。「つれづれなるままに、日暮し、硯に向かいて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしゅうこそ、ものぐるほしけれ。」
何か書いているうちに、気分が高揚してハイになってしまうのか。いまぼくにとって、スズリのかわりが、パソコンだ。デジタルだから、墨をすったり、紙を整えたりしなくてすむから助かる。
ぽかんと四角く空白な箱と対峙していると、相手は黙っているから、なんと話しかけてよいか、一瞬ひるむときがある。が、こっちになにか「よしなしごと」が頭に浮かぶと、こんどは、なんとか、むきになって、それを伝えようとする気が起こる。そこが面白い。
BLOGなる日記風のかたちは、この手の自分本位の一方的つぶやきコミュニケーション?に適しているのではないか。生身のひととのふれあいに、まさるものはないにしてもである。

ときに思い切って「王様の耳は馬の耳」と叫びたければ、そのまま、入力すればよい。

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ロンドンのハイドパーク公園では、演説したい人はりんご箱や椅子を持ってきて、その上に立って、主張をぶてばよいのだときいたことがある。数人の聴衆がいればいいほうらしい。BLOGは、りんご箱や椅子のかわりになるのだ。

一言も文句を言わず、さからわないパソコンは、実に素直な「傾聴ボランティア」だ。ディスプレーは、鏡だから、じぶんの独りよがりの独り言が、そのまま映しだされる。ほめられたり、くさしたりは、一人二役、自分ですればよい。
「いいね。うまくいったぞ。」「だめじゃないか、やり直しだ」「そうだ、その調子」とか。わが友パソコンとの自問自答でよし。別に、他人との双方向である必要はない。
老いたら、だれもがロビンソンクルーソーだ。ご主人のいうことを忠実に傾聴してくれるフライデーが、パソコンということになる。

投稿者 nansai : 10:16

2006年12月21日

十二月二十一日(木)

ハコ入りチョコレートは黒く苦い
クリスマスプレゼントとは関係ない。
最近、健康志向男性向けにチョコレートが宣伝され店頭に出回ってきた。黒くて苦いやつだ。

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ここにきて、ココアやコーヒーが、健康にいい、とあちこちの研究機関で証明されたのだ。心臓病にも一部 のがんにも、いい影響を与えることが、研究で証明されたらしく、チョコレートメーカーは、甘いものの苦手な男性を菓子市場に誘惑しようとしている。

大歓迎である。ぼくは、何を隠そう、大のチョコレート好きなのである。戦時中こどものころ甘いものに恵まれなかったぼくらにとっては、終戦後に進駐軍の持ち込んだチョコレートは、ああ、神の造り給いし地上の美味としか思えなかった。

でもカロリーが高そうだ。
もともとチョコレート好きのご婦人方も太るからとダイエット上敬遠せざるを得ない状況だったのが、健康によいという解禁?のお触れである。
これで血圧の高い太目のお父さんも、がんの予防にもなるとなれば、おおっぴらにチョコレートを健康のために食べてよし、ということだ。

にわかに、お父さん向けに甘さを抑えた黒い苦いチョコレートが、国内メーカー、海外専門メーカー製を問わず、いっせいにお菓子売り場の店頭になだれ込んできたのだ。

それはいいのだが、奇妙な現象に気がついた。
日本製ブラックチョコは、どれも立派なぴかぴかの黒い箱にはいっている。箱の紙質がいいから、一見してお子様むきでなく、お父さんのチョコレートとわかる。が、妙に軽いのだ。箱を振ってみると、のなかでかさかさと音がする。ちいさなチョコ片がきちんときれいに包装されて、たったこれだけ?と数えるほどしか入っていない。過剰包装といわれてもしかたがない。

報道によれば、心臓病の予防にアスピリンに代わって、少量のチョコレートが処方されることにもなるかもしれないのだ。
健康にいいのなら、牛乳や納豆のように、ずっと食べ続けるのがスジではないか。毎回、豪華な?箱代を払わされるのはごめんだということになる。

一方、外国のブラックチョコレートは、がっしりした農夫のように正直者にみえる。ずっしりと重く、そのまま、アルミホイル包装してきっちり紙のラベルが巻いてある。

日本のチョコレートメーカーが、貧相な中身を化粧品のように過剰包装でくるむのは、これは欧米との文化の差か、健康志向のお父さんさんたちをたぶらかそうとしたのか。(冒頭に描いたチョコレートは、ベルギー製。これを輸入した日本の菓子メーカー製のと、くらべてほしい。)

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お父さんたちは、駄菓子屋はとっくに卒業した。
「なんだよ。日本の男のチョコレートは、上げ底だ。
コソクなやりかたじゃあないか。」
ぴかぴかのきれいな箱に「チョコレート効果 CACAO86%」と、さも薬効あり気に記載してあるのだが、振ると箱の中でかさかさと音がする。中身がすこししかはいっていない。切ないねえ。
りっぱなハコ代とテレビ広告費をひくと、中身のチョコレートがやせて小粒で貧相なのは、仕方がないのだろうか。おかしいね。

この国では、上げ底、ハコもの主義は、すたらないのか。
日本列島の隅々の町や村に借金で建てられた公共建築物、公民館やテーマパークなどのコンクリートの「ハコモノ」が、バブルが終わって、企画したお役人がつるしあげられている。問題だ。どうするのだ。
ハコにつめる中身がたりなくて、リピートのお客が呼べないから、赤字、開店休業が多いのだ。
夕張や大阪のように、ハコだけ作れば後は何とかなる、という無責任なずさんな計画がついにあらわになり問われている。民間ならば、倒産だ。
地方自治体の常套手段が、地元にカネを落とすために、補助金をせしめて、せめてハコだけでも、という無責任構造だ。津々浦々に見受けられる日本独特のものなのか。
健康にいいはずの黒いチョコレートのハコをかさかさ揺さぶりながら、考えてしまった。

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話は飛躍するが、選挙が、問題だ。
候補者を、何で選ぶか。なにがはいっているか、(マニフェストがないし、なにも入っていないかも知れない)外側からはわからないから、箱で選ぶ。チョコレートのように、箱でしか選べない。これがこわい。
有権者の半分は女性だから、テレビのうえでの見てくれが第一。チョコレートのように、箱がりっぱでぴかぴかなら、有利だ。つまり、ハンサムか、おもろいか、好感度(芸能人がわかりやすい)が決めてだろう。
今の安倍首相も、わかさと長身とハンサム度で、なにもしないさきから、なにもできなくても、支持率が高いのは異常である。
かつての知事選挙では、東京都民は、青島幸雄を選び、大阪府民は、ノックを選んだ。

「人は見た目が9割」という本がベストセラーの上位を走っている。むかしから箱と中身のカンケイは、あやしい。

投稿者 nansai : 14:23

2006年12月13日

十二月十日(日)

死んでたまるか。ジミンザウルスの再生復活

郵政改革への造反議員十一名の復党、道路財源の結末をみると、ああ、むかしながらの懐かしい自民党が、勝ち誇って帰ってきたなと思う。もともと、自民党という政党は、利権の肉食恐竜である。頭が無数の族議員にわかれている。ところが、このヤマタノオロチは、頭脳明晰でIQと経験に裏打ちされた知恵に長けている。各業界から栄養を吸い上げるたくさんの口と歯を持つ。

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小泉改革で、ついにこの首たちが縮み、斬られたと、ぼくら国民は快哉を叫んだ。のは、甘かったのだ。
郵政、道路、農水、厚生、金融、防衛、それぞれの族議員の集合体が、国民から集め借金した財源を奪い合い、官僚と利権を構築し分かち合う構造は変わらない。

この恐竜は、選挙のときだけ食事する。つまり、有権者(およそ半分は棄権するが)の票を掻き集めてむさぼり食って生きている。見返りに各地域の選挙区に利益を誘導せねばならない。地域の利益とは、過去を見ればあきらかだ。テーマパークでも公民館でもダムでも橋でも地下駐車場でも、大義名分はなんでもよい、口実を設けて土建土木工事をおこし、地元業者を通じて、カネ(つまり税金)をばらまく。その結果、たとえば維持継続に必要な計画はずさんなでっち上げ作文だから、運営はどうにもならず、大阪や夕張のような惨状となる。

民主主義の運用に欠かせないステップが、選挙だ。
市知事選、県会議員選、参議院選、当選するため、候補者は地元の利益誘導を陰に陽に、約束しせざるをえない。土建業などをはじめ期待の大きい業界は、支援の見返りを願って、自分のため地元業界のため選挙資金を投資することになる。ばくぜんと日本をよくするために見返りを期待せずに、献金する人も企業もいない。

こちらの恐竜は、コイズミ期の地殻変動になんとか耐えて絶滅を免れたところだ。たくさんあった首は、くわばらくわばらと、みなちぢめていたから外からみえにくかった。

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しかし、ジミンザウルス、いや、ゾクギインザウルス恐竜は、かんたんには絶滅しない。田中角栄が精密に設計した自民党の恒久集票マシーンを利用した利益還元システムは、各分野で政官民の緊密な協力のもとに、しっかりと日本列島に根付いている。そのシステムの保安要員が、目を光らせている族議員なのだ。かつての「抵抗議員」のレッテルは、もう剥げ落ちた。

世論調査で、党内融和をかかげ妥協を続ける安倍首相のもと、自民党が「古い自民党」に帰ると見る人は40%だ。残念だが、そうなるだろう。

「改革の敵は、党内にある」と朝日新聞の社説は指摘する。まったくそのとおりだ。
しかし、傷も癒え首の生えそろったゾクギインザウルスは、いごこちのいい日本列島の選挙区を、ゆうゆうと闊歩し続けるだろう。改革は、田中角栄のDNAを引き継いでいるから、この恐竜の体質に合わない。

民主主義は、まず選挙だ。が、地域という部分最適でない、全体最適をめざす「国益」を願って選挙がおこなわれるか。そこが、問題。とりあえず選挙に勝つ「目先の結果優先」主義は、候補者の人選に問題があれば尻尾が頭部を振り回すことになりかねない。こまったことである。
かねてから、相手はおばちゃんとみて選挙民をなめてかかり、自民党は、見た目で勝負してきた。プロレスでもお笑いでも、深く考えずに即席に擁立した候補者の人気だけに投票する単純な有権者たち。その一票をかすめとろうとする戦略だ。立法府で法律を作る常識も識見もない人たちで多数化をはかる似非民衆主義はこわい。
いってみれば、ジェット機のコックピットにずぶのしろうとを機長としておくりこむようなものだ。当選したら、たくさんの国民の命と財産をあづからねばならぬ立場なのに。

選挙以外に方法がないのだろうが、広く長い目で見た民主主義の結果が危ぶまれるのは悲しいことだ。日本に限ったことではないようだが。
民主主義は、抗がん剤にも似た投票主義の副作用をどう抑えられるのか。結局は、有権者の責任ということに落ち着くのだが。複雑怪奇である。

投稿者 nansai : 14:31

2006年12月 8日

十二月八日(金)

猪歳年賀葉書鼠描絵展

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年賀はがきの販売合戦は、いまやたけなわである。
ことしも、頼まれもしないのに、マウスを動かして、あれこれ年賀状のアイデアを考えている。
代わり映えのしないクリスマスカードと違って、年賀状の主人公は、干支がころころ毎年かわるところがおもしろい。
南斎も、はりきって、獰猛なイノシシと格闘することに。パソコン上では、おもしろおかしく、ひねりワザできめたいものである。

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以前にもちらちら披露してきたが、思いついて、BLOG上に、弧展、というか、個展サイトをしつらえてみた。
で、テーマだ。マウスで描く年賀はがき絵展笑うイノシシとはどうだ!お立会い。ははははは。

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年賀葉書の売れ行きは、心配だ。昨年40億8500枚。ことしは、37億9000万枚と控えめだ。年々、お手軽なメールに食われているのだろう。それに年末になると賀状欠礼の知らせが増える。

郵政公社のホームページも、一流どころのイラストレーターを動員しての年賀イラスト満載で、利用を呼びかけている。運よく当選すると、「わくわくハワイ旅行」だそうだ。
そんなわけで、へなへな骨抜きになりかけている郵政改革を支持しているぼくは、妖艶なフラダンサーを登場させて、年賀葉書をだすようにと応援するのだ。往年の「トリスを飲んで
HAWAIIに行こう」の向こうを張って。

だが、通常、この手の変化球でユーモアをねらうのは、じろっと見送られるのがオチなのは、わかっている。そこで、本邦隋一のフラッシュアートの使い手杉村名人に助太刀をお願いした。

このイノシシは、歯をむき出して笑うだけでなく、そう、動くのだ。新機軸だ。かわいいね。


投稿者 nansai : 13:31

2006年12月 4日

十二月二日(土)

昭和は、すっかり遠くなった。なかでも、昭和三十年代が懐かしがられているらしい。意外な気がしないでもない。

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映画「ALWAYS 三丁目の夕日」は、昭和三十三年、東京タワーがまだ建設中のころの東京の下町が舞台だ。昨年封切られ、大ヒットしたそうな。
今ほど便利でも裕福でもなかったが、人々は来るべき21世紀を夢見ながら、ひたすら前に突き進んで生きていた。(サイトのイントロダクションから)そんな素朴な住人たちのかもし出す人情ドラマが、先日、金曜ロードショー20周年特別企画として、日本テレビ系で放映された。

昭和三十三年。家々に三種の神器テレビ、冷蔵庫、洗濯機がまだめずらしく、塾に行かずにすむ子供たちが泥んこになって遊ぶ横丁や原っぱ。
そこに暮らす善意のひとたちの悲喜こもごもの人情エピソードが、いとしく せつない。懐かしい。あのころはよかった、と涙の共感を呼び、200万人を動員する大ヒットとなって、2005年の日本アカデミー賞を総なめした。
ビッグコミック連載開始から30年以上を経た西岸良平の原作(総発行部数1400万部もすごい)を最先端のVFX技術で映画化したという大作だ。

だが、昭和三十年代の企業戦士?の一兵卒だったぼくは、漫画にも映画にも疎いせいで、うかつなことに、この話題の作品については、まったくなにも知らなかった。

「携帯もパソコンもTVもなかったのに、どうしてあんなに楽しかったのだろう。」このキャッチフレーズが泣かせる。
どうも、ぼくら兵士の主戦場だった昭和三十年代が、ぼくよりも、やや若い層に、懐かしがられているらしい。そうだったかなあ。
そういえば、ぼくが郊外の公団住宅で所帯を持ったのが三十五年。団地の各階両隣の皆さんとのあったかいお付き合い、すっかり忘れていた。

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みんな元気で毎日が楽しい何かがある時代だった。(夕日町オフィシャルガイド)
「どうしてあんなに楽しかったのだろう?」
といわれてみると、へえと、がくぜんとしたのだが、同時代の空気を吸って生きたぼくにしてみれば、正直言って、くすぐったくも、面映い気がしたこともいなめない。

あのころ、こどもだった人たちの思い入れは深いものがあるのだろう。映画のサイト「昭和語録」に、寄せられた感想をみると、昭和三十年以後に生まれた人たちからが多いようだ。あの戦争中と終戦直後の日本を知らないかれらにとって、ノスタルジックな遠い昭和は、甘酸っぱくいい時代に映るのだろうか。

高度経済成長前夜のそのころ、ぼくらは激しく変化する社会という戦場に駆り出された。
企業戦士というか、新兵として、がむしゃらに走り回った記憶がある。よく言えば、未来に、前向き、それもひた向きに。
ぼくらを負かしたアメリカが、追いつく目標だった。だれもがプロジェクト・エックスの一員のような昂揚した気分だった。
社会に出たぼくらは無我夢中で、振り返ろうにも、いとしく切ない思い出とは無縁に、突っ走ったのだろう。

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町を走るオート三輪の群れ、ミゼットのコマーシャル、
夜な夜ないりびたっていたトリスバー、おせじにも、アメリカ映画に出てくる景色ほど、かっこいいとは思えず、子供たちが夢中になって回していたフラフープも、ブームはすぐ消えたが、ぼくらは売るほうの側だった。
当時、小津安二郎の描く名作の世界も、うつくしすぎてまばゆく、あくせくゆとりのないぼくの目には、どこか現実と遊離したきれいごとのように映ったことを思い出す。

昭和二十年、国敗れ、ぼくらの親たちは、復員し、引き揚げ、廃墟から立ち上がった。感動的な「夕日の三丁目」の舞台は、十年前、そこはただ見渡す限りの焼け野が原だった。
「もはや戦後ではない」と経済白書が言い切る昭和三十年代へたどりつくまでに、朝鮮動乱をはさみ十年。
瓦礫からの日本経済の復興は、かれらの力だった。

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まったく偶然に、たまたま、乗ったタクシーで、あと二年で定年を迎えるという年配の運転手さんから、集団就職の思い出話をきいた。
同級生たちと就職列車に乗って、鹿児島からでてきたのが、昭和三十四年。当時住み込みの日当百八十円で食費など百十円引かれる。残らない。食事は、どんぶり飯の盛りきりだから、おなかがすいてすいてたまらない。ごくまれに、チキンラーメンに生卵を入れて食べたが、それがうまかったこと。
どんなに苦しくても五年間は我慢して勤める約束で、国に帰る旅費もなく布団をかぶって泣いたという。

それぞれの昭和三十年代を経て、今日のぼくたちの日本があるのだ。せつないほど懐かしいか、思い出したくもないか。それぞれの夕日。

「きれいだねえ。」
映画のおわりに、燃えるような夕日を鈴木オートの親子三人で眺めている。
「あたりまえじゃないか。」夕日を指差しながら主人公の少年がいう。
「明日だって、あさってだって、五十年先だって、夕日はずっときれいだよ。」
「そうだといいわね」「そうだといいなあ」
と少年の若い両親がうなずいて映画は終わる。

投稿者 nansai : 10:57