縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2007年1月31日

一月三十一日(水)

セイウチの絵を描く

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つくづく、いい顔しているなあ、しかしソラでは描けない動物たちがいる。未熟なぼくが、そのうちに、なんとか描けるようになりたい動物だ。三種類いる。
セイウチ、イグアナ、カメレオン。
ふだんみたことがないから、描くのは容易なことではないが、ひまつぶしにはもってこいだ。

いずれも、テレビの秘境の動物番組いがいでは、なかなかお目にかかれないグロテスクな面々である。愛嬌のある、ひとくせある複雑な顔と体型の持ち主だ。
そこらを走り回っているイヌやネコを描くように、特徴をつかんでスケッチできない。
動物園で運よく出会ったとしても、瞬時のデッサン力がなければ、たとえ円山応挙でも、めったに見慣れないかれらの姿を形にのこすことは、至難のワザであろう。

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テレビの秘境動物番組は、ぼくのごひいきである。
動物園にでかけなくても、ここで、珍獣たちに出会えるのだ。録画しておいて、いい表情はデジカメで撮っておくようにしている。
国内外、ほとんど旅行しないぼくが、いちばんお世話になるのは、南極から、アフリカ、アマゾンまで。いながらにして世界が見渡せるサーチエンジンである。

グーグルで探し出した写真を並べて見ながら、マウスで描くことになる。らくちんではあるが、思うようには描けない。とりあえずセイウチをと、たのしく、悪戦苦闘している。つぎは、声量豊かな美声の友人のカンツオーネの熱唱振りを、貫禄十分のセイウチにたくしてみた。

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そんなぐうたらなぼくが、ある晩、テレビをみていて、ほとほと感心した。
アメリカの有名な絵本作家ターシャばあさんの庭がNHKでこのところ毎年紹介されている。バーモント州の寒村の山の中の一軒家に一人暮らし、91歳で現役の絵本作家だ。彼女の自然な庭も有名だが、描いた絵本は百冊を越える。小さな子にとって、お話が魅力的なのはもちろんだ。
絵が、とにかくうまい。デッサン力がすごい。

テレビを見てぼくが感心したのは、90歳をこえた彼女のプロとしての目とワザである。イヌやねこ、動物のさりげない生き生きしたシーンをとらえ、肉眼に焼き付ける。その場で、いつも傍らの、小さなスケッチブックに、さっとデッサンする。おそれいりました。
ぼくのように、ろくにスケッチもせずに写真をみながらおたおたマウスを動かすアマチュアとは、くらべものにならない。
彼女は、幼いころから、肖像画家だった母親からきびしく対象を目にしっかり焼き付けるように仕込まれたそうな。すごいなあ。まねのできることではない。

投稿者 nansai : 16:04

2007年1月29日

一月二十九日(月)

このごろ短歌が元気だ

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「マーラーって映画音楽みたいじゃない?」
「おお、何というお褒めの言葉!」             
               斉藤 寛

こんな短歌が、日曜日の日経新聞にのっていた。短歌もかわったなあ。脱皮したのか。しろうと目にも、このごろ短歌がやけに元気だと思う。
第一、ぼくにもわかりやすい。共感を呼ぶ。新聞の投稿欄でみるだけだが、俳句に比べて、文字数が多いだけ、自由で、冒険ができるのだろう。
伝統の鋳型を尊重しながらも、今生きている日本語をのびのびと駆使しているところがすばらしいと、門外漢のぼくは感心するのだ。
俵万智「サラダ記念日」の影響か。さいきんは、だれでも短歌の世界が身近に感じられ、すぐ参加できそうに思えてきた。

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ついでながら、俵さんの人気サイト「チョコレートBOX」を探して開けて見たら、自選の「一人百首]これが、びっしりと横に組まれていた。

「うちの子は甘えん坊でぐうたらで
先生なんとかしてくださいよ」

これも短歌だ。せっかくのユニークな作品、いい感じに縦書きにしてもらえたら、と思う。横に組むともったいない気がする。この縦組みサイトを参考にしてほしい。

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短歌も、オンライン百科事典ウイキペディアのように、題を決めて、自由編集すれば、平成の古今集、万葉集が続々うまれるだろう。選者はいらない、無限収録アーカイブとなると、おもしろくも、すごいことになる。収拾をどうするか、大きなお世話だが。

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ケータイの普及で、若者は、想が浮かべば、即、時間と場所を選ばず、親指を自在に動かして、詠み人になるとテレビ特集でみた。伝統の短詩形とデジタル表現は、意外なことに、よくなじむらしい。いま風にいえば、短歌2・0だ。

もう一首、今朝の日経新聞から。

若者が眠りメールし老いの立つ電車は
ネオンの町の底行く         
               森田小夜子

「町の底」が印象的、と選評にあった。地下鉄通勤のぼくがよく目にする光景だ。

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投稿者 nansai : 11:17

一月二十八日(日)

ハッピー?バースデー

誕生日を迎えた。
いよいよカウントダウンの段階にはいった。ぼくのまわりは、家族も、みな知らん顔だ。いくつになったか?この歳になると、「おめでとう」など、こころにもないことはいえないのだろう。武士のなさけ、惻隠の情というやつである。

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パーティーはしないが、腕をふるって、バースデーケーキを描いた。ろうそくの数は、計測不能、でたらめである。
あっという間に三つも描いた。
画餅ならぬ画ケーキ。これなら、不二家のように賞味期限でとっちめられることはない。

老年が青春を演じようとしだすと、老年は卑しいものになる。と、ヘッセが書いたものにあるそうだ。
そのとおりで、老いを受け入れない老年は醜い。
以上は、中野孝次の「今ここに―充実した老いのために」からだ。
老いを戒めることばは、多い。愕然とする。
孔子は、例外なのだろう。
論語では、自分は70歳になって、こころのおもむくまま、のびのびと行動しても、規範からはずれることはなくなったといっている。
凡人はそうはいかない。

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そうではあるが、この歳になったら、老人の美学もほどほどに、という気になっている。孔子様には及びもないが、そこそこの自前のブレーキを信用しよう。
いちいち反省するのもしんどいし、もう自然体でいこうやと、若いころからいい加減なぼくは、居直ってしまう。
要するに、見苦しいはずの、自分の老いに鈍感なのだ。こまったものだが、つけるクスリがない。

ありがたいことに、還暦をはるかすぎたころに、MSペイントで絵が描けることを雑誌で知った。不器用でずぼらなぼくでも、デジタル機器のおかげで、マウスを操って、下手なりの横好きのお絵かきができるのだ。

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好きな色を勝手に塗りたくるのに、年齢はカンケイない。ピカソや北斎をみてみろ。
くまやネコやいぬの絵のプリントアウトを、隣のイタめし食堂マリアンにはりだしておくと、お客のご婦人方のお目にとまることもある。また聞きだが、べつに専門家でもない彼女たちの「ま、かわいい」は、最高の賛辞である。ついつい、ひそかにウケをねらっている自分がいて、ぎょっとさせられる。

600年も前の徒然草にも、いやなことが書いてある。
「聞きにくく見苦しきこと、老い人の、若き人に交じりて、興あらんと物言いたる。」と。
老いを受け入れない老年は醜い。そのとおりだろう。

しかし、兼好法師にもヘッセにも申しわけないが、凡愚のぼくはぼくなりに、デジタルを杖とすがり、余生を興に乗って、過ごしたいと思うきょうこのごろだ。いいんじゃないの。たいしたことはできなかったが、なにしろ、孔子様よりも長生きをしてしまったのだ。

21世紀の、このバーチャルな世界では、姿さえみせなければ、老年のぼくは、いつまでも水も滴る若衆絵師に化けていられる。と、思いたい。

で、以下は、誕生記念に自画像?悪乗りのナンサイ像だ。

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見てのとおり、桃山時代の屏風絵からのパクリである。化けた若衆のバサラ振りが気に入っている。

だが、虚実どっちも、実像とは似ても似つかぬ「捏造」じゃないの。と鋭く見抜かれれば、あっさり、ごめんなさい、なのだが。

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投稿者 nansai : 10:51

2007年1月26日

一月二十六日(金)の二

題字下のワッペンは実は勲章なのだ。

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なんだか落ちない落語のようだな、と思われているが、この縦書きサイトには、じつは、こころざしというか、目標がある。

ぼくらは、パソコンの日本語文章を、見境なく、なんでも横組みにすることに反対である。
パソコンの画面で、日本語を縦組みすることが、どんなに大事なことかを、あらためて世に問うのが、このサイトの究極の目的なのだ。

日本語をすべて横書きせよ、というのは、明治の廃仏毀釈以来の、官の暴挙ではなかろうか。お役所の文章は、宮内庁の歌会始の天皇の御製まで、一律に横に組まれている。いかがなものか。
日本語は、縦書きすれば、読みやすいし、微妙な行間の意味も汲み取れる。日本の伝統的なひらがな漢字交じりの文章は、縦で組むとうつくしい。和歌、俳句、詩は、余白を生かして、すらすらと縦で書きたいと願う人は多い。
かつて縦、横自在に書けたオアシスなどのワープロを懐かしむ人が多かった。だが、アメリカ生まれのウインドウズに蹴散らされ、市場原理には勝てず、日本独自発明のワープロはあえなく滅亡した。

しかし、縦組みの火がきえたわけではない。ウインドウズでも、やりようによっては、縦組みができると、こころある若い技術者が汗を流している。
ぼくにはちんぷんかんぷんだが、開発された、この形式が、答えのひとつではなかろうか。

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ぼく南斎は、若いスタッフが敷いてくれた線路の上を走るおサルの運転手だが、せっかくの新形式披露の機会なので、つたない即興のお絵かきなど描いて、沿線に愛嬌を振りまいている。
今は、おサルの電車でも、いずれ日本語の文化を満載して、後世に向ってひた走るデジタル新幹線になるのではないかと夢見ているのだ。

昨年、せっかくのこの汗の結晶をなんとか世に問うべく、「ウエブ1グランプリ」というコンクールに、スタッフが応募したところ、思いがけなく入賞のしらせをいただいた。(くわしくは、題字下のワッペンをクリックしてみてほしい。)

審査員は、現役の錚々たるウエブ専門家ぞろいだ。
縦組みという毛色のかわったウエブ表現形式が、数多の応募作のなかから、審査の席ですんなり受け入れられたことは、意外でもあるし、うれしい。

日本のデジタル文化の将来をお見通しの、具眼の士に評価していただき、とても心強く、光栄である。敬意を表し、こころよりお礼を申し述べたい。

きょろきょろと落ち着きのない気ままなおサルの運転手だが、運転にはげみがでてきた。もうすこし、がんばれ。

投稿者 nansai : 12:17

一月二十六日(金)の一

玉子うどんをお手本に

このサイトのつくりは、ぼくが勝手にみずからにしばりをかけている。自縄自縛だ。
だれからいわれたわけでもなく、「絵巻」と称して、絵とトピック(お話)を組み合わせて横へのスクロール効果がねらいだ。即興の絵にこだわり、あえて写真は使わないことにしている。
絵がさきか、話がさきか。あ、と思いついたせっかくのひらめきとの出会いを、このごろ、すぐに忘れてしまうのだが、べつにそれも差し迫った締め切りがあるわけではなく、出たとこ勝負のおもしろさがある。

もちろん、どんなに短いものでも、筋立ては大事だ。話がなければ、なんのこっちゃい、話にならないのだが、ぼくとしては、絵が思いつけなければ、形として成立させないことにしている。絵にこだわるあまり、本末転倒のそしりは免れまいが。

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このサイトのつくりは、うどんに似ている。
玉子うどんやきつねうどんの、玉子や油揚げなどの具と、うどんと汁とのバランス。
このばあい、うどんが文章だ。絵が、油揚げやてんぷらなどの具である。うどんの量が多すぎて、どんぶり鉢からあふれ出ても困る。
このごろ、「話が長い」と、よくいわれる。具、つまり絵が貧弱で文章とのバランスを失しているのだ。
文章を短く、絵とのバランスを考えて。たまごうどんがお手本である。
この玉子うどんの絵は、話の都合上、大あわてで即興で割りいれたものだ。へたくそ、かつ、おそまつではあるが、こんな形式もあっていいと思っている。

おりしも、栗林忠道著「「玉砕指揮官」の絵手紙」が文庫本として小学館から出ている。映画「硫黄島からの手紙」の原作。昭和の初期、留学先のアメリカから、字のまだ読めない長男にあてて、鉛筆で描かれた克明なスケッチなど。愛情とユーモアと、絵の伝える力に感銘した。

投稿者 nansai : 12:00

2007年1月25日

一月二十五日(木)

ブッシュのエネルギー奇策?
ガソリンがぶ飲み大国アメリカは、いったい本気で代替燃料の開発に乗り出すのだろうか。

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ブッシュ大統領が、年頭教書演説で、石油を海外に頼りすぎているとして、力をこめてエタノール開発をぶち上げたので驚いた。
いかにも付け焼刃という感じで、突如、エネルギー問題の特効薬的に、原料として、砂漠に自生する「スイッチグラス」を持ち出した。ぼくには、イラク紛争をはぐらかすイカのスミの煙幕のように見えたが。

それよりも、アメリカ車社会のガソリンの消費をもっと減らすのが先だろうに。消費を抑制するためのガソリンへの税金は、政治家としては口が裂けてもいえないアメリカだ。

ガソリンのかわりに、エタノール?ほんまかいな。
大統領は、エタノールの原料として、スイッチグラスとトウモロコシの研究に期待すると述べた。
ぼくの遅れた常識では、まだSFの段階と思っていた。砂漠に生い茂るスイッチグラスなる背の高い雑草は、突如演説で取り上げられて、当の研究者がぶったまげた段階なので、はなしにはならない。

トウモロコシのほうは、NHKテレビでみていたら、話しはどんどん進んでいるようだ。
アメリカ農家は、代替燃料の原料、トウモロコシの価格を、パソコンでみながら、一喜一憂している。不作でもないのに価格が急騰したそうで、いまのところは上機嫌のようだ。エタノールの原料としてのトウモロコシの相場が、石油のように、先物で取引されているらしい。

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ゼロ金利(われわれの負担だ)の日本マネーもファンドに吸い上げられて、こんなところで、トウモロコシ相場の吊り上げに一役買っているのだろう。機に敏で
グローバルにはしこく動き回る投機マネーは神出鬼没である。

NHKテレビでみて、びっくりした。
大平原のあちこちでトウモロコシからつくるエタノール工場が建設されていた。しょうちゅうを醸造するのとおなじだから、焼酎の味がするそうだ。生産地の本場アイオワ州では、たりなくて、他州から輸入せねばならぬようになったとか。うそのような話だが、価格があがると、トウモロコシを低開発国の援助には、もう使えない。
家畜の飼料としては、日本のような輸入国に大きな負担となるのだろうか。すぐさま、ぼくたちの食肉や牛乳、タマゴの価格に響いてくるとは想像できなかった。

いやなシナリオが考えられる。
そのうち、アマゾンの流域の密林も切り倒されて、エタノールの原料に化けると心配されている。貧困にあえぐ低開発国は、ハイエナのような外資への抵抗力はなく、地球規模で環境に気を配るゆとりは、とてもない。

しかし石油に代わる燃料は、過去の歴史では、石油価格が跳ね上がるときに、火のついたように騒がれて開発され、石油価格が落ち着くと、しぼむそうだ。
いま建設されているエタノール工場が、ある日廃墟と化しているやもしれぬ。
エネルギーをどの方法で節約するか。政治的配慮からか、まだ怪しげなバイオ燃料に頼ろうとするブッシュ。アメリカの国是はぼくらの常識とは異なるが、現実的には、日本のハイブリッド車の今後の大躍進しだいでもあろう。

投稿者 nansai : 13:17

2007年1月23日

一月二十三日(火)

ガム犯
このごろ地下鉄御堂筋線で、時々耳慣れないアナウンスを耳にする。もごもごと歯切れ悪くききとりにくいのだが、前代未聞のこんな内容だ。
最近ガムを座席に付着させる悪質ないたずらをするものがいる。発見したら、乗務員か、最寄の警察官に通報してほしい。

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「痴漢は犯罪です。もし見かけた方は:」は、もう耳タコだが、ガム犯?は初めてきいた。
まことに容易ならぬ犯罪、というほどのこともないが、ネットでしらべてみたら、毎日新聞が暮れに取り上げていた。
御堂筋線で座席や握り棒にガムを付着させる悪質ないたずらが急増している。昨年八月から突然増え始め、230件を越えたそうだ。被害は、御堂筋線だけ。
まったくもって、けしからん。
だが、経営効率が低すぎると吊るし上げられ、民営化を迫られている大阪市交通局には悪いが、笑えてくる。いやあ、大阪は平和な町なんだ。バグダッドにくらべれば。

さてと、このくちゃくちゃ噛んでくっつきやすくなったガムの絵は、むつかしい。ま、なんとか。

ところで、この犯人。特定のグループではないかと推測されてるが、なんとよんだらいいか。すり、痴漢など、伝統ある地下鉄犯罪者のネーミングがまだ定っていない。ガム犯?恐怖のガムマン?

ぼくは観ていないが、映画「それでもぼくはやっていない」で話題の冤罪は、起こり得る大問題である。こわい話だなあ。
満員電車のなかの痴漢行為。たとえ身におぼえがなくても、突然「このジーさん、ちかんでーす」と、そばの屈強な女性につるし上げられたら、もうアウトである。駅長室につれていかれるらしい。彼女は確信犯で断固あとにはひけないから、「すみません、間違えました」はないのではないか。へたくそな最悪な審判のように。

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錯覚だ。誤認だ。「ぼくはガムをかんでいない、」とわめいても(ぼくも、だんだん興奮してきた)、相手は、思い込みのつよそうな女性。ぼくはもうトシだが、拘置されて白状をせまられたら、どうなる?ふつうの人は重圧に耐え切れない。家族も、うちのパパならやりかねないと、あきらめ顔だ。無罪を主張し続ける自信がなく、どうでもいいから、自白でも署名でもなんでもする。早くここから出してほしい、と思うようになるだろう。

しばらくのあいだ地下鉄御堂筋線では、不用意にガムを噛むのは、やばいかも。李下に冠をたださず、というではないか。
厳戒態勢(うそだ)中の「最寄りの」警察官にまちがって通報される可能性なしとしないのだ。

投稿者 nansai : 16:27

2007年1月18日

一月十五日(月)

敬太君の歌会始

知人の吉田さんの次男坊は、いまどきまれな孝行息子である。

帰省した兄とボールを蹴りに行く
土手一面に月見草咲く
               吉田 敬太

この歌を詠んだ吉田少年は、一月十五日、宮中で催された歌会始の儀に、最年少の栄えある入選者として参内した。今年の題は「月」だった。生まれて初めて詠んだ歌で、応募作2万3737首のなかから、たった十名の入選者に選ばれたのだ。すごいことだ。おめでとう。

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最新のヘアースタイルで髪の毛を逆立て、直立して朗詠をきくサッカー少年敬太君。その初々しいすがたが、新聞やテレビに大きく取り上げられた。
まだ十六歳。高校一年生で未成年のゆえをもって、付き添いとして吉田パパがモーニングに身を固めて同行した。孝行息子のおかげで、二重橋を渡れるなんて、夢にも思わなかった。なんと誇らしいことだろう。

吉田パパの本職は、コピーライターなのだが、あれはトビがタカをうんだとか、驚いたなあ、センスは息子のほうが上じゃないの、とか、周囲にひやかされても、にこにこしている。

宮内庁のウエブサイトを開けてみた。
ここには、歌会始に寄せられた天皇皇后はじめ皇族がたのお歌についての解説がくわしくのっているのだ。おそるおそるアクセスすると、意外、なんと、これが横組みである。ちょっと残念な気がする。

ぼくは、日本古来の和歌の型を表現するには、木で鼻をくくったような横組みは、なじまないと思う。
あのようなデリケートなひらがなの詩を、いきなり横組みするのは、あまりにもおもむきがない。
耳からきく場合は、違うらしい。宮中で披露されるときは、朗々と、語尾を独特の節回しで延ばす古式豊かな発声法がつたえられている。

平成デジタルの御世にも、伝統ある日本語の文章は縦組みでうつくしく表現できるのではと思うのは、昭和一桁うまれのぼくだけだろうか。
デジタルだからといって、一律に横組みすることの是非を、ハード、ソフト両面から、もっと検討し議論したい。【まだ不十分ではあるが、その答えのひとつが、この縦組みサイトのつもりなのだが】

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敬太少年のように、学校で横書きになれた若い人のなかには、どっちでもいいじゃないの、どうして縦書きにこだわるの?と、ふしぎがる向きも多いことだろう。
しかし、すべての日本語の文章をパソコン上で横組みにしてしまって、繊細な日本語独特のいいまわしの行間の意味、雰囲気は、伝わるものではないだろう。
これからの日本語の伝え手、つくり手である若い人たちにも考えてもらいたい。

歌会始は、いい機会である。
つぎのWEB3・0の兆しも、世間では議論に上っている。
しかし、この際、ちょっと立ち止まって、パソコン上で、和歌や俳句、随筆などの伝統の和の感覚を伝える日本語の文章をどう表記するかを考えてみたいものだ。
日本人のための、日本人による、デジタル世紀の日本語をどのようにつくりあげてゆくか、または、どのように流されてゆくか、老いも若きも、国民のあいだでひろく、論じてほしい。

務め終へ歩み速めて帰るみち
月の光は白く照らせり

歌会始に寄せられた御製が、ウエブサイト上に、横組みされるのも、まあ、大きな時の流れではあるだろうが。

投稿者 nansai : 13:55

2007年1月15日

一月十一日(木)

三千人と三百万人と
日本中のメディアがホラー死体バラバラ事件で持ちきりのさなか、イラク戦争について、アメリカ大統領は国民に向かい、苦渋に満ちたテレビ演説をおこなった。

ブッシュ大統領は、中間選挙の敗北で窮地に立ち、長老たち専門家のアドバイスもあってイラク戦争の段階的撤退を迫られていた。が、予想に反し、自分の過ちを認めつつも、窮鼠は猫を噛む挙に出た。一転強気とも思える二万人のごり押し増派計画である。

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このままでは引き下がれない。増派した兵力を、バグダッドに集中し、血みどろの宗派間闘争に中に割ってはいるというものだ。長老たちの勧告はしりぞけ、隣国イランとシリアには、対話ではなく、敵意むき出しで対応する。
果たせるかな、ものすごいブーイングである。狂ったブッシュのベトナム戦争だとも。

ぼくには、決して他人事と思えない。
昭和初期の日本と、重ね合わせてみている。「あの戦争」に突入する前の昭和十二年から十六年までの大日本帝国の、国としての迷走ぶり、とだ。
公爵近衛文麿が輿望をになって三度組閣した近衛内閣は、盧溝橋事件以来、泥沼の中日間の紛争に歯止めをかけられず、現地の軍部の独走を許し、最悪の選択ナチスドイツ、ソ連と手を組むにいたった。南仏印に兵を進め、鉄、石油の禁輸を通告されて、「やむを得ず」追い詰められた挙句、国の運命を東条内閣にゆだね、総力戦になだれこんだ。軍部だけでなく、新聞も国民も、戦争やむなしという国民感情の土石流に身を投じた。

アメリカの戦死者は、開戦三年を経て、三千人を越えたばかりだ。しかし、この数字に、軍関係者をはじめ、反戦の世論はわきあがっている。アメリカのテレビによれば、演説直後で、ほぼ七割が反対である。

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昭和十六年、大日本帝国は、米英を相手取って総力戦に突入した。国の面子を賭けた、売り言葉に買い言葉、騎虎のいきおいだった。その代償は、想像を絶した。
戦没者三百万人である。

あの当時振りかざされていた大義がどうあれ、東条英機も山本五十六も、近代の国家総力戦に敗れれば、当然、国が焦土と化し、いったいどれだけの人命が失われるかの想像がつかなかったとしか思えない。
大義は、為政者によって大きく揺らぎ変動する。
戦争末期には、大日本帝国は、戦争目的を
切り替え、本土決戦を閣議決定した。国土が戦場となれば、沖縄、サイパンのように一般市民、住民に莫大な被害が出る。国体を護持するためにと、一億玉砕を新聞も叫んだ。

日米彼我の戦力差は、戦う前からわかっていった。
戦争は、ごっこでもなくおもちゃでもない。アメリカを相手の国家総力戦に、精神論や大和魂で勝てるわけがなかったのに。

大日本帝国は、昭和二十年までの四年間に海外の資産全領土と、三百万同胞の尊い人命を失った。みな陛下の赤子である。うち戦闘員は、二百七十万人、その七割が餓死、という声の出ないほど悲惨な結果に終わった。戦場にまきこまれたアジアの民衆の被害は、何千万ともいわれている。

三千人と、三百万人。戦争で人が死ぬということは、それぞれ国ごとの大義のもとに駆り立てられるのだが、それにも限度があろう。もし国敗れて三百万人の国民の命が失われるとわかっていたら、あえて戦争を始める指導者はいるだろうか。あまりにも無知、かつ無責任。リスクマネージメントの初歩の見積もりの問題である。靖国神社に参拝するかどうかとは、違う次元の問題なのだ。

戦争の拡大をめぐってのアメリカの大統領と議会のせめぎあい関係に注目しよう。与党は中間選挙で破れ、民意は戦争に反対を投票で表明した。

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アメリカは、戦前の日本と違い、シビリアンコントロールだ。軍人の上に、文官が位置する。軍人が政治を圧倒する仕組みではない。 
昭和の軍国日本では、大元帥を擁して統帥権を振りかざして、軍の意向に反する一切の言論を封じた。むちゃくちゃだった。
今回は、増派に反対の慎重論の将軍たちを、文官のブッシュはくびにした。朝鮮戦争の拡大を主張するマッカーサー元帥をくびにしたトルーマンのように。

憲法上は、議会が大統領の上に立つ。野党民主党は、戦費をカットできるのだ。しかし、戦車の燃料を抜いて動けなくすることは難しいだろう。
大統領は、拒否権を行使できる。

歴史の教えるところでは、戦争を始めることはかんたんである。
しかし、勢いのついた戦争をやめるのは至難だ。
負けてはいない。が、勝ってもいない。勝ち負けのはっきりしない戦争ほどそうだ。
大義にもとり、流した血、英霊に申し訳ないという論理が働く。

今ふりかえれば、日本には昭和十二年と昭和十六年と、昭和二十年に転機があった。大日本帝国に、世界と歴史を見渡しての選択肢という概念がなかったのが、あの取り返しのつかない悲劇を招いたのだ。

アメリカは、朝鮮戦争、ベトナム戦争と、戦争の拡大を防ぎ、やめることの困難に、歴代の大統領が直面してきた。

あらためていま、アメリカの民主主義のしくみの有効性がためされている。建国の父たちの叡智が憲法に生かされているのが、アメリカの誇りなのだが。
歴史に何を学んだのか。アメリカのイラクへのかかわりの今後に注目したい。


投稿者 nansai : 16:04

2007年1月 8日

一月六日(土)の二

ネコが駅長に任命されたという新聞記事を発見。それも、「一日駅長」ではなく、勤務はフルタイムらしい。
今朝の日経、朝日の写真入りのスクープ?に当家は、初大笑い。
といっても、見出しもついていない社会面の隅っこのコラムである。「青鉛筆」と「窓」欄が取り上げた。

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ことの次第はこうだ。
「和歌山電鉄貴志川線に、ネコの駅長が誕生し任命式がおこなわれた。任命されたのは、構内の売店の飼い猫たま(7歳)である。」
ドサクサ人事で、一歳上の母親のミーコ(8歳)も助役に。朝日新聞によれば、同居のメスちび(6歳)も。
市有地にあったネコ小屋が立ち退きをせまられたのが、ことの起こり。飼い主の売店のおばさんが、「駅に置かせて」と貴志川電鉄に相談したところ、かわいそうでもありPRになりそうだと、無人駅で不在だった駅長に抜擢されたのだ。
飼い主のおばさんも、光栄だと涙声。就任式には、地元住民約50人がかけつけたそうな。

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豆粒大の新聞写真を虫眼鏡でのぞいてみると、三毛猫だ。氏素性も、うちのキジ猫と同じ、れっきとした駄ネコだな。が、三毛猫は、茶色、黒、白の三色の毛が生えているネコだ。あわてて描きなおした。
こんなやらせは、いいねえ。
毎日火事と殺しでいっぱいの新聞紙面の片隅のオアシスか。
アイデアとしては、ぼてぼてのサードゴロだが、絶好のタイミングで、うまくいいところに転がった。仕掛け人は、さぞしてやったりとほくそ笑んでいるだろう。新春にふさわしい天晴れをやろう。

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すごいのは、とにかくカネがかかっていないところ。出演料は、三匹に、キャットフード一年分。

しかけた鉄道側は大真面目で、通勤通学だけではやってゆけないそうで、客寄せにミーコ一家の手も借りたいのだ。

ひまにあかせて、ネットで調べてみたら、はたせるかな、出ている出ている、NHKをはじめ、かなりのメディアがとりあげていた。ほかに大切な報道もあるだろうに、この国は、平和だとしみじみ感じさせられた。
KTVにいたっては、動画で、駅長の鳴き声をきくことができる。まさに「玉」音放送だ。(この駄洒落、おそれおおいことだが、われながら秀逸)

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どうやらこの辣腕?の仕掛け人は、「貴志川線の未来を作る会」らしく、「ずっと!もっと!貴志川線」なる、ヒナにはまれな立派なウエブサイトがある。イベントもやりすぎと思えるほど盛りだくさんだ。
なんでも「日本一心豊かなローカル線」にしたいそうだ。その志や壮たり。ちかくテレビ番組「ガイアの夜明け」にも取り上げられる。がんばれ。
世に、ばかばかしく空しいのは、官製「一日」税務署長などのやらせイベントだとは思いませんか。
毎年あきもせず税金を使って有名女優やお笑いタレントを呼んできて、一日何とか長を委嘱し、テレビカメラを引き寄せようとする。お役所にしてみれば、
知恵はないが、前例もあるし、予算もとってあるし、ま、しかたないか。

投稿者 nansai : 19:54

一月六日(土)の一

らく描き、書き初め

めでたさはこんなものかも大あくび
めでたさや平々凡々万々歳
そのうちに「きょうは何の日?」お正月

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ハレとケの日の区別のない時代になった。正月も、いまやふつうの日である。松の内も、ただの連休だ。
としのはじめの、ためしもけじめも気にしないでよい、めでたい御世である。
クリスマスを祝う習慣のないころに「もういくつ寝たらお正月」と指折り数えて歌ったような盛り上がりはない。こどもたちの羽根突きも、凧揚げも、独楽遊びも、みかけることはない。

年が改まるといっても、年賀状は年末にせかされて投函してしまうし、家々が門ごとに国旗を立てるとか、

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一家そろって神棚に手を合わせるとか、取引先、職場の上司だけでなくご近所、親戚へも盛装して年始回りとか、かしこまった儀式めいた行事が一切合財なくなったからだろう。

ほろ酔い機嫌で、グーグルを散策、徘徊していたら、「小学校祝日大祭日儀礼規定」がでてきた。
思い出した。ぼくの子供のころは、小学校で、一月一日に式があったのだ。
この明治23年の文部省令によれば、学校長、教員および生徒一同は、式場に参集して、天皇陛下と皇后陛下のご真影に対し最敬礼を行い、万歳を奉祝する。恭しく教育に関する勅語を奉読する、とある。

ぼくらは、二枚のセピア色のご真影の額のかざられた講堂で、たしか素足で立ったまま頭をたれ、校長の奉読する教育勅語をきいた。だが、「朕思うに」以下勅語をうやうやしく棒読みされても、小学生には難しすぎて聖意のあるところはさっぱり理解できなかった。

戦前のそのころは塾も補習もない時代で、放課後にあちこち道草したあげくランドセルを玄関に放り出し夕方まで遊びほうける日々。結果的に、あれは「ゆとり?教育」だったなあ。

甲羅へて年老いたワニのようになると、新年といっても、年が改まり、身も心も引き締まるという感じがうすれてくる。べつに、こまりはしないが、ふしぎでもある。
オカダ監督ではないが、つい居直ってしまうのだ。正月も、365日分の一日に過ぎないと。

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ぼくは、例年、年賀状の干支にちなんだアイデアを考えるのは大好きで、何ヶ月も前から、試作を描き散らす。昨年も、イノシシは、マウスを動かして数百匹描いた。ところが、大あわてで年賀状の宛名を書くのは、ぎりぎり押し迫った三十日と三十一日だ。気がせくので、毎年、書き損なったり出し忘れたりする。
悲しいことに、もともと少ないあて先の数も、年々くしの歯をひくように減ってゆくのだが。

便利安直なメールに食われ年賀状を出す人が、年々減ってきて、郵政省もあわてていることだろう。危うし年賀状。元日配達は、7年連続、前年比6・7%ダウンだ。投函日も年々遅くなる傾向だという。
「返り年賀」というのが、あるらしい。わかる、わかる。元日の年賀状を見てから、あわてて返事を出す人も多いそうだ。

今年は、年賀はがきで、ハワイ旅行が当たるそうだ。
郵政公社によけいなアイデアをひとつ。消えてゆくこどもたちのお正月風景を再現する意味で、羽子板を景品にしてはどうかな。公募して、図柄にアイデアをこらす。ちなみに、この羽子板は、抽選に当たったイノシシがワイキキの浜でフラダンスを踊るというくだらないもの。

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年賀状の投函日が遅くなるのは、出すほうの都合から見れば自然なことだ。
ぼくも、あわただしい年末、早くと早くと、郵政公社の配送体制の都合で、せかされたくない。

そもそも賀状が元日に届かないのが、エチケットに反すると、誰が決めた?そのような暗黙のルールはしんどいし不自然だ。
昔のように、ゆったりとした気持ちで元旦に賀状をしたためる風習にもどしてほしい。

いまはすたれたが、もともと年始回りの代役が、年賀状なのだ。
受け取るほうよりも、むしろ出すほうの気持ちと都合を優先すべきである。そのほうが、郵政公社も年賀はがきがよく売れて、えびす顔になること疑いなし。

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わが町では、郵便局のサービスは、みごとに、よくなった。二日も配達するし、窓口も歳末のぎりぎり投函、返り年賀にも、待ち構えていてニコニコ対応してくれる。天晴れである。

投稿者 nansai : 19:32