縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2007年3月 2日

三月二日(金)

お国のために

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30年前に制作されたドキュメンタリー番組「遠い島」(昭和53年制作)が、朝日放送から深夜一時過ぎ、ひっそりと再放映された。深夜CMまみれの無残な姿で、アカデミー賞受賞式の前夜、あたかも人目をはばかるかのように。
真夜中のことで、見た人は、ほとんどいなかったのではないか。
アカデミー作品賞の呼び声高かったクリント イーストウッド監督の「硫黄島の手紙」は、賞を逸した。

ドキュメンタリー「遠い島―硫黄島・その33年」。1977年第15回ギャラクシー大賞を受賞している。
再放送は、深刻な内容にもかかわらず、俗悪な深夜向けCMが、フジツボのようにびっしりとりついていた。ずたずたに話が中断し、見るに堪えず、戦没者に対し心無いことのように思えた。どこか心あるスポンサーが、ノーコマーシャルで提供すべき重い内容なのに。

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昭和20年2月、日本軍は、栗林中将以下、地熱60度の地下にアリの巣のように地下壕を掘りめぐらし要塞を築いて待ち構える硫黄島に、米軍が上陸。思いもかけぬ頑強な抵抗に遭い「太平洋の墓場」といわれた激戦となった。
一平方キロあたり双方の戦死者は1400人。
日本軍は二万人が戦死(全員玉砕といわれたが1000名は捕虜となり生還)、米軍は6800人戦死。22000人負傷した。
番組は、戦後33年経って、日米双方の生還者、遺族の生の声を取材した。20人あまりの証言を淡々と積み重ねてある。生還した兵士たちは、一様に口が重く語ろうとしない。
摺鉢山に星条旗を立てた国民的英雄のインディアンの兵士は、国債の宣伝のために呼び返され、英雄扱いされているうちにアル中になって死んだ。
その星条旗が立てられる瞬間を双眼鏡でとらえていた日本軍将校は、その直後撃たれて両眼を失った。いまもそのシーンを夢に見るが、カラーだという。
捕虜となって生還した大隊長は、もう何も覚えていないと取材を拒否。

33回忌は、仏教でも供養の一区切りである。
硫黄島戦没者供養塔が建てられた。遺族が集まる法要の席で、僧侶がたちあがり、今日は天皇誕生日だから、万歳を三唱するといい、音頭をとる。
「テンノウヘイカ バンザーイ」
遺族のおばあさんたちが曲がった腰をかがめたまま唱和させられていた。
「バンザーイ」
みていて、胸がつまった。痛ましい限りである。

長野県から参列した金田シズエさん、84歳(当時)が、マイクの前でインタビューにたんたんと答える。

どんなお子さんでしたかときかれ、
「親の口からいうのもなんじゃけど、親孝行な、やさしい子でした。
お国のために果てたのじゃから、あれでよかった。満足しております。」
日本が栄え、わたしも皆さんもこのように幸せに過ごせているのも、ああいう子たちがいってくれたおかげと思っております。
家に帰って、さみしいときは、わたしは歌を歌って、眠ってしまいます。歌はほかに知らないので、よくないかもしれないが、軍歌をうたいます。
「それより後は一本の 煙草も二人分けて飲み
ついた手紙も見せおうて 身の上話繰り返し」、
そのうちに、疲れて寝入ってしまいます::

ぼくは、胸のつぶれる思いで聞いた。

再放映された番組が終わって、解説の道上アナウンサーがつけくわえた。
33年前このドキュメンタリーの取材に応じたかたがたは、今ほとんど亡くなっているでしょう。心からご冥福をお祈りいたします。
おばあさんの口ずさんでおられたのは、軍歌というより、戦争の挽歌として知られた「戦友」です。
「ここはお国を何百里」
バックにゆっくりと歌詞が映し出された。

一、ここはお国を何百里 離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下

二、思えばかなし昨日まで 真っ先かけて突進し
敵を散々懲らしたる 勇士はここに眠れるか

この14番までえんえんと続く長い歌詞の、なんと十番を、84歳の金田のお母さんは、覚えていた。眠ろうとして、くちずさんでいたのだ。せつせつとして裏悲しい調べは、決して元気の出る歌ではない。

いま、大きな戦争はなく、平和が続いている。
愛していた死者から、前向きに生きる勇気がもらえるとして、「千の風となって」が、世界中で歌われ朗読されているという。

私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません

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硫黄島の日本軍戦没者二万人。「太平洋の墓場」で、誰に見守られることなく、ほとんどの遺骨は、まだ地熱60度の地下壕にある。おそらく眠ってなんかいない。千の風になり、大空を吹きわたれたら、どんなに気持ちいいだろう。

昭和二十年三月、硫黄島守備隊が玉砕して、日本は制空権を失いB29の本土への空襲が激化した。
内地のぼくら中学(旧制)二年生も、本土決戦に備えての陣地構築のため、日本海海岸に動員された。
丸太を縦に並べた機関銃座を、老兵といっしょに、アリの巣のように海岸の岡沿いに掘りめぐらす作業だった。国体護持のために、である。
硫黄島に送られたのも、老いた応召兵たちだったと、ドキュメンタリーの解説はのべていた。本土決戦をひかえて日本には、老兵か子供しか残っていなかったのだ。

あれから、62年の歳月が流れた。
今回、ハリウッドで、突然、硫黄島が映画化され評判にならなかったら、この国はと、ぼくは思ってしまう。

投稿者 nansai : 2007年3月 2日 13:49