縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2007年5月28日

五月二十八日(月)

我輩は蟻である

ぼくは、毎朝、熊野詣だ。
知る人ぞ知る「熊野かいどう」をてくてく歩いている。

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かつての八軒家船着場、いまの京阪天満橋駅が起点だ。
階段をあがり、土佐堀通りをこえ、だらだら坂を南に上がる。トウカエデの街路樹の下を、えっちらおっちらと、たったの二百メートルくらいだが。
熊野かいどうだ。

「熊野街道は、このあたり、(渡辺津、窪津)を起点にして、熊野三山に至る道である。」
と、坂の上がり口に、石碑が立っている。
「京から淀川を船でくだり、この地で上陸、上町台地の西側、脊梁にあたる御祓筋を通行したものと考えられ、平安時代中期から鎌倉時代にかけては、「蟻の熊野詣」といわれる情景がつづいた。」
千年前の平安時代からの細い道を、ぼくは毎日歩いている。蟻の行列の一匹だ。

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蟻たちは、なぜ、この道の果て、はるばる熊野を目指したのか。信心の薄い平成のぼくには、想像もつかない。
熊野は、浄土信仰が盛んだった平安末期、現世にある「浄土」の地とされたといわれる。

その頃、仏が滅してから、二千年。
京から、上皇や女院による熊野御幸がひんぱんにおこなわれたという。
暗黒の「末法の世」を説かれても、ちんぷんかんぷんの庶民はそれどころではなかったが、当時の貴族社会は、不安でパニック状態に陥っていたと思われる。

記録が残っている。鳥羽上皇21回、後白河上皇34回、後鳥羽上皇28回、
上皇クラスの御幸は、約百年間に百回を数える。おびただしい回数だ。
それも、物見遊山の旅行ではなく、身を清め、京から徒歩600キロ、莫大な経費をかけ大勢の人数を従えての一ヶ月半の難行苦行だった。

そんな熊野参詣に、ひとびとを駆りたてた恐れは、なんだったのか。
道中の難行苦行が一切の罪業を消滅させ極楽に往生できる、という阿弥陀信仰だったというが。

上皇の御幸がすたれたあと、室町時代からは、武士や庶民が、蟻のように列を成して、熊野を詣でたらしい。

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眼を閉じて、タイムマシーンに乗ってみよう。
1159年12月、人家もまれなこの細い道を徒歩の平清盛が白装束姿で、後白河院の熊野御幸のおともしている。
保元の乱は、その留守を源義朝らに襲われたところから始まった。平家、続いて、源氏と、武家政治への転換点だったのだ。

御堂筋と平行する、この筋は、いまは大阪のどこにでもある、名もない道のひとつだ。千年も前から、上町台地に向かうこの細い道を、人々が往来した。
だが、交通量のはげしい坂の入り口にたつ石碑の銅版に気づく人もいない。

大阪は、坂の町、夕日の美しい町だ。日の沈む西方の浄土に向かい手を合わせて、この道を歩いた蟻たちの行列を描いてみた。

投稿者 nansai : 2007年5月28日 11:56