縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2007年7月31日

七月二十九日(日)

ぼくも いくさに征くのだけれど

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今から65年前、あの太平洋戦争下、一人の大学生が、ごくふつうのことばで、かざらない真情を、詩のかたちで、ノートや手帳に書き残して、応召した。発表するあてもないままに。
映画監督志望だった彼は、昭和二十年、二十三歳の若さでルソン島の戦場に散った。

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街はいくさがたりであふれ
どこに行っても征くはなし 勝ったはなし
三ヶ月もたてば ぼくも征くのだけれど
だけど こうしてぼんやりしている

ぼくがいくさにいったなら
一体ぼくはなにするだろう てがらたてるかな
だれも かれも おとこなら みんな征く
ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど

なんにもできず
蝶をとったり子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら

そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますように
成田山に願かけた

この詩は、かれが愛読していた萩原朔太郎の詩集の余白に、書き残されていたという。

7月22日のNHKハイビジョン特集、「青春が終わった日 日本が見えない 戦争下の詩と夢 竹内浩三」のなかで紹介された。はたして、どれくらいの人がみただろうか。
中公文庫「ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死」(稲泉 連)も、大宅壮一ノンフィクション大賞受賞作の帯をまとって、書店に平積みされている。

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詩人として戦後はじめて評価された竹内浩三とは、どんな青年だったのか。
「征く」とは、一体どういうことなのか。だれもかれも おとこなら みな征かねばならぬ。なぜだ。
ぼくの孫のような世代のひとたちが、60年以上も前の戦争や出征という、理解を越えて想像を絶する出来事にとまどいながら、自分と同年輩の戦没詩人をドキュメンタリーに取材している。

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この詩を書いた竹内浩三は、昭和二十年フィリピンルソン島で戦死した。二十三歳の若さだった。グライダーで敵の中に降りて戦う空てい部隊に所属していた。
戦時下、映画監督を夢見て日本大学芸術科の学生だったかれが、ノートや手帳に書き残した詩は、戦後遺族により発表され、世に出た。
友人の手で編まれた私家版の作品集は、昭和31年に発表されている。NHKラジオは、昭和57年に「戦死やあわれ 兵士竹内浩三の青春」を放送している。
初めて世に問われて、もう50年もたっているのだ。

発見された戦没詩人に、若い人たちは、「反戦」というより、「青春」に、若者としての共通項を見出しているらしい。
竹内浩三の青春を知る人たちは、90歳に近い。
竹内より10歳年下の少年だったぼくは、陣地構築に学徒動員されたが、かろうじて本土決戦の戦火を免れた。
いくさにいったなら、「なんにもできず」とは、まさにぼくのことかと考えた。軟弱中学生だったぼくは、
軍事教練でどじを繰り返し、授業中も漫画のらくがきでうさばらししていた。応召まぎわの竹内浩三のいいようのない不安と焦燥が、ひとごとでなく、理解できる。
あのようなやさしいことばで、たんたんと、苛烈な時代にさからうでなく、あきらめるでなく、竹内は、詩の形で自らの無念の思いを残した。ただひとりの姉以外の、だれに読まれるというあてもなしに。

今、ぼくのまわりは、総理大臣をはじめ、戦争を知らない人ばかりである。
しかし、少年のころ、いやおうなく戦争にまきこまれながらも歴史に無知な当事者だったぼくは、戦争を知らない若い世代の人たちの研究に教えられている。
竹内浩三もくわしく理解できたのは、今回がはじめてだ。年配者によっては、あまりに苦い経験は語りたくなく、正しい史実に眼をそむける人も多い。
本格的に客観的に、戦争に取り組もうとしている若い人がふえてくるのはいいことだと思う。

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無力だったが、昭和一桁生まれのぼくは、時代の目撃証人の一人だと感じている。ぼくの絵は、まぶたに浮かぶ当時の光景にもとづいている。
戦時中、田舎町のぼくら小学生も、幾多の英霊の凱旋を道路わきに整列して迎えた。遺骨をおさめた箱は白い布につつまれ、兵士たちの首から吊り下げられて、無言の行進をした。
昭和二十年敗走し戦死した竹内浩三の骨は、いまも故国に帰ってはいない。ルソン島のどこかで行方不明だ。
かれは、生前、ノートにこんな詩を書き付けていた。

白い箱にて故国をながめる
音もなくなんにもなく
帰ってはきましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし

ああ戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

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ことしも、また八月十五日がやってくる。戦争を知らない世代が、どのような形で受け止めるだろうか。

投稿者 nansai : 15:25

2007年7月26日

七月二十六日(木)

百万人の天神祭り。これでいいのかなあ。

阪神中日戦は気になっていたが、ふと思い立って、大混雑の天神祭りをのぞいてみた。
むろん、天満橋は、人ごみで近づけない。八軒家から、天神橋へと人の流れに逆らって歩いた。

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天神橋のうえは、歩行者天国だが、欄干に人がもたれているだけで、がらがらである。
橋のまんなかで警備員がハンドマイクで呼びかけている。声をはりあげるでもなく、もごもごと。
「ここからは、花火が見えません。」
つまりこの橋にいてもしかたがないから、花火の見える場所に移動しなさいと、ご親切にも、案内しているのだ。天神橋は、天満宮の表参道のようなユニークな存在なのに。
追い立てるなんて、大きなお世話だ、とぼくは思った。
なんだ。
大阪天神祭りは、つまるところ、花火大会なのか。
つい京都の祇園祭の山鉾巡行と比べてしまう。

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錦絵でみるように、本来、大阪の橋は祭りの主役のはず。
これでは、主客転倒ではないか。

八時ごろ、天神さんの境内にはいったら、はたせるかな、ここも、がらがら。これでいいのかなあ。周辺のたこ焼きやなど、夜店は、人出でごったがえしている。何しろ百万人がくりだしているのだから。
せっかくのお祭りで、境内に人気が少ないと、お賽銭にもひびくだろうに。天満宮には、博物館級の幾多の拝観するに足る御物がある。もっともっと価値を演出すればいいのにと思う。花火もギャル神輿も、そえものだろう。

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けさの新聞をみると、日本の三大祭のひとつ、大阪天神祭は、あまり大きくはとりあげられていない。タイガースの記事がはるかに優遇されている。
水都の夜空に、奉納花火5千発、鉦や太鼓の音をひびかせながらすすむ100隻の飾り船、百二万人の人出でにぎわった、とのっている。

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百二万人が押しかける祭りは、めったにあるものでない。甲子園が満員になっても、4万人に満たない。
くわえて、どこの祭りにも負けない1千年以上の伝統がある。
でも、最古の祭りの伝統があり、これだけの大観衆を引き寄せたのに、祭の内容が、これでいいのかという気がしている。ものたりない。
人気を追うあまり、祭りの本義はさておいて、あまりに打ち上げ花火中心にすぎるではないか。舞台も、偏ってしまったように思う。

大阪日日新聞の吉岡社主が、座談会で辛口のコメント。「率直にいって工夫がないように思いますね。船に乗って人がたのしんでいるのを、周囲の観客がボーっと見ている。船渡御そのものに対する工夫がもっと必要です。」

大阪の観光の目玉が、千年の伝統を持つ天神祭りではないのか。はりぼてと吉本でつぎはぎされた御堂筋パレードではないかも。

大阪は、戦火にさらされ、時代がかわった。祭りの背景が激変したのだ。
水の都といっても、大阪の大阪たるゆえんの八百八橋もいまや見る影もない。

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網の目のようだった川も掘も 自動車道路に取って代わられた。
変化に応じて、大阪は、次の百年を見越して祭りの再設計が必要なのではないか。
残念だが、水辺の船渡御の舞台は、表情がかわってしまった。
天神祭りは、たんなる大花火大会で終わってはもったいないと思いませんか。
。京都の祭りに負けない「行列」「パレード」の新趣向、アイデアの革新が求められる。思い切った発想の転換は、本来、大阪商人のお家芸だ。

「最もがっかりした観光地ランキング」(週刊ダイヤモンド)で、大阪市は、堂々?の2位である。うーん、このままでは、いけないのでは?

つぎに、よけいな提案を。
祭りの舞台として、大川の南側、土佐堀通り、中ノ島一帯は、舞台としてなんとでも再設計できる。京阪電車の新線と、八軒家遊歩道を、いまから祭りを意識して計画したいものだ。
いま、京橋三丁目のビルは、土佐堀通りから、すぐそこに大川の祭りの様子が望めるのだが、格子のシャッターかガラス戸が下りている。

つぎに、せっかくだから、天神橋からも、淀屋橋からも、花火が見れるように、打ち上げ場所を、ふやしてはどうだろう。
規制がやかましいらしいが、べつに高度はのぞめなくても、松屋町の線香花火のようでもいいではないか。

大川は、東西に長い。祭りのテリトリーをひろげて、天神さんのご利益を惜しみなくいただいて、大阪つぎの百年の発展のためにあやからせてほしいものだ。

投稿者 nansai : 15:33

2007年7月24日

七月二十四日(火)

台風4号。中越沖地震。原発火災。つぎつぎとエラい目にあったが、日本列島、とにかく、からっと梅雨明けだ。

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河童が寝転がって、ぽかんと、雲ひとつない空を見上げている。真ん中の白いマルは、河童の皿のつもりである。きょうは、芥川龍之介をしのぶ「河童忌」。
河童忌や河童のかずく秋の草 万太郎

今宵は、大阪天神祭宵宮。

投稿者 nansai : 15:27

2007年7月23日

七月二十三日(月)

アジア杯、4強へ

因縁のオーストラリア戦に、やっと勝った。サッカー国際試合の日は、ぼくも熱い愛国者だ。檻の中のクマのようにテレビの前をうろうろする。オシム語録のにわか信奉者でもあるが、落ち着かない。(この雄牛になぞらえたオシム像は、ぼくにしては、よく描けている。自画自賛。)

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いい試合だった。退場で一人少ない相手に、押し気味に進めたが、120分の延長でも一対一のまま決着がつかない。劣勢の相手の目論見どおり、PK戦へもつれこんだ。
いやーな予感をぶっとばしたのは、キーパーの川口の
まさに神がかりとしか思えない、超ファインセーブ。
川口が、身を挺して左右に飛んで、一人目と二人目を、止めた。すごいぞ。天晴れだ。

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勝てて、よかった。

それよりもなによりも、思うことがある。
開催国べトナムは、30年前は、戦場だったのだ。
立派に整備されたハノイの大スタジアムで、赤いユニホームの小柄なベトナムイレブンがボールを追っている。これが、平和なのだ。

ならば、500万人とも言われる死者をだした、あの戦争は、なんのためだったのか。
そして、世界各地の紛争は、何を生むのだろう?
高くかざされた大義のむなしさを思う。

スポーツも、競い、争う。だが、だれもが納得する合意のもとにだ。
サッカー試合は、共通のルールで、勝ち負けを判定される。国家も、イデオロギーも、政治体制も、民族も、宗派も、その秩序に従う。人類は、その知恵に学びたい。バグダッドで、アジア杯を!

投稿者 nansai : 11:14

2007年7月19日

七月十九日(木)

普及させたくない?エコバッグ商売

スーパーでくれる無料のポリ袋を、「レジ袋」というらしい。全世界で5000万枚とも一兆枚とも推定されている。
にわかに、これが世界中で、文字通り、袋叩きにあっている。いまや地球温暖化の元凶として、「ポリ袋廃絶」が叫ばれているのだ。

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パリでもニューヨークでも世界の各都市で、法案が通り次第、実施に移されるだろう。
アメリカが、手のひらを返して、地球温暖化防止にむかい、急激にハンドルを切ったからだ。そして、政府公認の、ポリ袋に代わる布のバッグが、脚光をあびている。
珍現象として、こんなエコバッグが熱狂的に売れているのをご存知か。世界の街角の信じられない光景を、ぼくはテレビ報道でみた。

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「あたしはポリ袋じゃないよーだ」と変な字で描いてある。英国の一流バッグデザイナーが手がけたこんなバッグが、それこそ、すごい人気だ。
みたところおそまつな中国製のズックのバッグ、取っ手は、布の紐製。どこがいいのかねえ。
デザインしたハインドマーチ女史のご尊名を、寡聞にしてぼくは存知あげなかったが、これが隠れもないブランド品で、知っている人には値打ちがあるらしい。

値段が2000円前後なら安いと、ロンドン、シンガポール、香港、台湾、東京、ニューヨークで売り出したら、徹夜も辞さない長い行列ができた。
お一人様三個で売り切れご容赦ということで、即、売り切れ。ネットオークションに出すと、3万円の価格がつくというからびっくり。台湾では、お客が殺到して、警察官が出動、病院行きの怪我人が30人。懲りてアジアでは、インターネットでしか売らないそうだ。
本来は、NPOが、環境破壊の諸悪の根源ポリ袋を廃止すべく、ハインドマーチ女史に、綿布のエコバッグのデザインを依頼したのに端を発する。

そんなわけで環境問題とまったくカンケイないお宝騒動が、世界の各都市の街角でくりひろげられている。してやったり。環境問題もファッショナブルにやらなければと、デザイナーの仕組んだ限定販売作戦がいやらしい。これが、大当たりというから、世の中、どうかしている。特に、ご婦人方の勘定がよくわからない。香港で買いそこなったお客が、わざわざニューヨークまで買いにくるらしいと、ニューヨークタイムズは、
ハインドマーチ女史の話を紹介している。ええかげんにしてほしいものだが。

投稿者 nansai : 16:12

2007年7月18日

七月十八日(水)

桂 雀々十八番より「さくらんぼ」

いま上方落語がブームとかで、たまたまだが、テレビの「雀々十八番」上演にいたる一部始終ドキュメンタリーをみてしまった。ふだんはあまり関心がないのだが、後日深夜に放送された落語二題も録画しておいた。
そのひとつが、「さくらんぼ」。ぼくは、雀々を、はじめてきいた。

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雀々は、しつこく、まくらで予防線を張る。
「さくらんぼ」は、人気がなく弱いネタで、前列g席くらいしか、おもしろさがわかってもらえないと。すんまへんなあ。なので、後ろのほうのお客さんは、寝てもろてもよろしいが、途中で抜け出さんようにと、勝手な注文をつけていた。話のすじはこうだ。

間違って、さくらんぼうの実を飲み込んでしまった男。なんだか胃がむずむずしているなと思っているうちに、のどの奥から、さくらの木がむくむくと育ってきた。

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春になると、この木が頭のてっぺんで満開だ。うわさを聞きつけて近所の連中が花見に押しかけてくるようになった。人が集まって、あんまりやかましいので、怒って引き抜いたら、雨が降ってあとが池になってしまった。こんどは、昼夜かまわず、釣り人が集まるやら、おおさわぎ。眠ることもできない。あまりのことに、男は、世をはかなんでか、腹たち紛れか、南無阿弥陀仏と、池に身を投げてしまった。

と、雀々は、大熱演だが、なんとも、残酷で気の毒な、笑えない?ハナシだ。
えらいこっちゃなあ、どうしよう。頭のてっぺんで、さくらが満開になったら。ぼくなんかは、このシュールなネタの主人公に、つい同情してしまう。

中には、どうしてあたまのてっぺんの池に身を投げられるのか、としつこく問いただす野暮な客もいるらしい。雀々が予防線を張ったのは、演っていられないからだろう。

シュールで面白い発想だが、たしか前にも出会った記憶がある。

偶然にも、同じようなアイデアを思いついて、ラク描きで、あれこれためしたことがある。
頭の上部をカットして、平たい部分に、脳裏に浮かぶよしなしごとを、いろいろと描きこむのがぼくの手口。子供のころの思い出の砂場とか、さくらの木も。

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さくらんぼの由来をネットでサーチしてみた。、えらいもので、ちゃーんと調べた人がいる。
ご教示に預かることにしよう。
これは、安永2年頃の人気のあった笑い話だとか。あらためて、江戸時代の先人のアイデアに脱帽だ。300年前に、最初に発想した人はすごい!
落語では、けちのハナシの枕に用いたそうだ。「あたまやま」として定番だった。落語好きには常識なのだろう。

投稿者 nansai : 16:07

2007年7月12日

七月十二日(木)

岡島投手はえらい。

全米オールスターでMVPに輝いたイチローはもちろんだが、わが岡島投手は、あっぱれである。
最後のネット投票で32番目のオールスターに選ばれた。すごいことだ。たった3ヶ月間の救援実績でファンから認められたのだ。

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残念ながら、球宴では登板のチャンスには恵まれなかったが、実績はたいしたものだ。
アメリカ人の野球選手を評価する眼のただしさ、きびしさがよくわかる。現役ならば、過去の名声よりも、いまの実績だ。マツイもマツザカも選ばれなかった。
あっち向いてほい、といわれる岡島の独特のピッチングフォームを描くのは、むつかしい。
ぼくは、テレビの画像を静止して、試みてみた。でも、うまくは描けない。再チャレンジせねば。

投稿者 nansai : 13:36

2007年7月11日

七月七日(土)

70年前、七夕のあの日を境に何が始ったか

70年前の昭和十二年七月七日、北京郊外に起きた「盧溝橋事件(Marco Polo Bridge Incident)を思い起こそうと、社説に掲げたのは、朝日新聞だけだった。テレビは、ほうかむりをきめこんだ。

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いま、ほとんどの日本人が知らないのではないか。
昭和十二年七月七日に、なにが起きたか、何が引き起こされたか。
日本では七夕風景がテレビをにぎわせているが、中国では、国辱の日ととらえているという。

70年前この橋の近くで起きた日中間の発砲事件が、日本にとって破滅の大戦争へなだれ込むきっかけとなった。
それより6年前の満州事変に端を発した日中の衝突は、ここにきて、ついに国のブレーキがきかなくなった。この日から、ゆっくりと日本の地すべりがはじまったのだ。軍部の狙い通り、戦火は中国全土にひろがり、八月には第二次上海事が起きた。

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あの昭和十二年七月七日こそ、日本にとって、運命の日だった。もう後に戻れず、4年後には、英米に宣戦布告し、8年後には、日本は焦土と化し無条件降伏した。
懐かしい「三丁目の夕日」は、無一物、焼け野が原から、10年以上たった後の話だ。

日中戦争は不思議な戦争だったと歴史家はいう。日中双方とも宣戦布告をおこなわないまま戦闘が続けられた。いっぽう、裏面では、太平洋戦争末期にいたるまで、種々の和平工作がおこなわれていた。(加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」より)

当時、戦争のニュースは日常茶飯事で、ぼくらは「支那事変」と呼ぶように教わった。ぼくらの読む絵本のなかでは、だいすきな兵隊さんが、戦地でも、中国人の子供をかわいがっていた。(現在「支那」という漢字は、変換を試みてもでてこない。)泥沼などという凡庸な表現では言い表せない「戦争」が続いた。

いまふりかえれば、国民も、世界の現実を知らず、気楽なものだった。
「東洋平和のためならば、何の命が惜しかろう。」と、銃後のぼくらは歌った。死を恐れるなと教えられ、こわいけれど、命の大切さも、よくわからなかった。「平和」とはなにか、戦争がないことのありがたさがわかっていなかった。戦争になれきって、国じたいが狂いかけていたのだ。

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拝啓ごぶさたしましたが、
ぼくもますます元気です。
上陸以来きょうまでの、
鉄のかぶとの弾のあと、
じまんじゃないが、みせたいね。
「上海便り。佐藤惣之助」

こんな軍歌が、軽快な節回しで歌われた。
戦争は「人殺し大会」といったひとがいる。この歌では、戦争の厳しさが、気楽なメロディにのせて、甘く口当たりよいカクテルのように、偽装されている。
少年のぼくにも、おぼえやすく、うきうきと、じょうずに歌えた。
この年、第二次上海事が終わるまでの日本軍の損害は、戦死者9115名、負傷者三万名。
あの南京事件(Nanking Massacre)も、この年に起きた。

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いま、昭和を懐かしい時代ととらえるか、敗戦に至る十字架の道だったととらえるか。
あまりに波乱万丈だった同時代に生きたぼくだが、個人として体験したことは、吹き荒れた巨大台風のほんの局地認識でしかない。何も知らされなかったし、歴史認識というには、あまりにも無知であった。
最近、各国の公文書館から当時の極秘資料が公開され始めた。ぼくよりも若く、戦争を経験していない優れた研究者による昭和史の著作が、堰を切ったように、次々と出版されている。一冊をあげておく。
加藤陽子著「満州事変から日中戦争へ」岩波新書



歴史にまなぶ。無力なぼくらにできることは、それだけだ。
盧溝橋には、抗日戦争記念館が建てられている。真珠湾上には日本軍に撃沈された戦艦アリゾナの記念館がある。
何の知識もなく訪れる日本の観光客には、その意味がわからないらしい。
被害者は、決して忘れないし、忘れまいとする。勝者であればなおのことだ。都合よく水に流しはしない。

南京で30万人が虐殺されたとの中国側の主張は、あんまりだと、朝日もいう。こころみに、ウイキペディアで、世界の虐殺とされている事件の一覧表を見てみよう。当時のおぞましい振る舞いの事例を、東海大「鳥飼研究室」のサイトは克明に収録している。

ベトナム戦争でのソンミ村の米軍による虐殺の犠牲者は、村人504人。加害者の兵士たちは軍法会議にかけられた。
戦争は、そのような残酷な情況を生み出したし、復讐心に燃えて引き金を引いた兵士など加害者は黙して語らないのは、どこの国でも同じだ。

朝日新聞は社説で提案した。もう一歩勇気を持って、踏み出せないか。史実の論争は専門家にまかせて、安倍首相は、南京を慰霊のため訪問すべきだと。
それはいい。だが、首相の歴史認識は浅いように思われ、こころもとない。耳に逆らわない内輪の意見だけ聴くのではだめで、みずから歴史のおさらいをしてほしい。広く世界の日本に注ぐ眼のきびしさを知らねばならぬ。
官邸のネットで、つぎの項目をサーチするのに数分もかからないはずだ。盧溝橋事件。南京事件。日中戦争。同じ項目で、英文のウイキペディアも。

投稿者 nansai : 16:15

2007年7月 5日

七月五日(木)

阪急電車の「全席が優先席」は、あまかったのか


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満員電車に、ときどき、どこからか、でかい顔のカニがでてきて、座っている。大阪だけだろうか。
オオマタビラキガニのオスだ。大股を開いて、座席を占領する習性がある。
片方のはさみが進化して、ケータイに変化している。いつもケータイに目を走らせるか、目をつむって寝たふりか、妊婦老人に席を譲ることはない。
その大股を、ひざ膝頭ひとつずつすぼめると、もう一人座れるのだが。このカニは、縄張り意識が異常に強く、そこを下手につつくと、逆切れする習性に注意だ。

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阪急電鉄には、電車の「優先席」がなかったとは知らなかった。あえて「全席が優先席」という性善説をとって、「どこの席でも譲り合いの心」を乗客に期待したという。
新聞によれば、こんど、その施策を見直すことになったらしい。
思ったとおりの効果があがらなかったとか?それはあたりまえでしょう。なんでも、株主総会で、高齢の株主から要望が出たらしい。

でも、阪急電車の「全車輌優先座席」は、結構ではないか。9条のように、他の善意を期待するユートピアもすてたものではない。
優先座席を設けたからといって、にわかに席をゆずり合う美風がうまれるか。効果がないのは、おなじだろう。
しかし、「美しい日本」はうさんくさいが、「やさしい大阪」なら大賛成だ。沿線の乗客の善意を信頼する阪急の性善説は、それはそれでいいと思う。総会で株主につきあげられたからといって、あたふたするのも、いかがなものかと思ったりする。

そもそも「優先席」とは、何を優先するかが、だれにもはっきりしないのではないか。
ぼくは、混んだ車内で席を譲られたことは一度もない。
我勝ちの先着順が、ここ大阪のしきたりだ。後から乗ってきて、座る権利があると思うほうが、おかしい。席が空いているとしたら、つり革にぶら下がっての友人同士の会話がはずんでいるときだけ。
電車の中では他人とかかわりたくないと思うのか、みなすぐケータイに視線を落とす。

先日も、こんなことがあった。
満員の地下鉄に乗り込もうとしたら、ぼくの横を若い男が、するすると、くぐりぬけ、目の前の空いた席に、すっと座って、ケータイに見入り始めた。そいつはカニではなく、イタチだった。ああ、タッチの差だった。どうせ、しばらくすれば、座れるのだけれど。

投稿者 nansai : 17:25