縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2007年8月28日

八月二十八日(火)

ぼくの絵のこと 自画弁護

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さしてパソコンに強くないぼくだが、こうしてデジタルの恩恵をうけて、絵(のようなもの)を描いている。
ぼくの絵は、いわゆるコンピューターアートとはほど遠い。縁もゆかりもない、といってよい。
MSペイントという無料の初心者向きソフトを使って、マウスを机の上を滑らせて、おもいつくまま、描いている。
ぼくにとっては、画筆やエンピツにあたるのが、たまたまマウスなのだ。
机の上でマウスを滑らせるのに必要なスペースは、ハガキサイズ半分ていどである。猫ならぬねずみのヒタイか。だから、省スペース。画用紙も絵の具も使わないから、省資源。体力を消耗せず、くたびれないから、C02も排出しない。

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いってみれば、ぼくの絵は、デジタルの「お皿」にのっているが、職人がひとつひとつ手でにぎる「スシ」のようなものだ。アナログそのものなのである。
もちろん、せせこましいスクリーンとマウスの制約があるから、油絵のような大きな構図、こみいった描きこみは、できない。「小さなぬり絵」といったところか。
ケッサクができた!と、喜び勇んで紙にプリントする気になったとたんにコストが発生する。プリンターのインクと紙代だ。ばかにならない。これをどう収めるか。

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デジタルであろうがアナログであろうが、要するに、内容、中身だ、アイデアだ、自画自賛でいいじゃないの。と、ぼくも居直ってうそぶくのである。
なまじ画廊で個展など開いて、人さまにめいわくをかけては、いけないと思っている。
親しい人は、災難だがいいとしよう。余技でご愛嬌というところがある。知らせを受け取って、思案した挙句、義理で顔を見せてくれる人には、申し訳ない。
その点で、ウェブはいい。見るのがいやなら、画面をきりかえればすむことだ。

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プロを目指す若い人も、こんな風に、画をMSペイントとマウスで描こうとするあほな人はいない。幼児にしても、あたえられた三輪車のようなものだから、すぐにあきて卒業してしまう。
やはり高齢者向きかなあ。
三輪車の最高齢レーサーがぼくだろう。レースといっても参加者がいないのだが。

手軽にふとした思い付きを、ちょっと手をかけて、かたちにして残せるのがいい。すぐ忘れてしまうのだが。

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出だしのパソコンとマウスの絵は、描きたてほやほやだが、そのほかは、何年か前に描いてわすれていたのを、ひさしぶりにマイピクチュアから引っ張りあげて並べてみた。個展といえなくもないか。

投稿者 nansai : 15:07

2007年8月24日

八月二十四日(金)

八月のあの日の空の青さかな

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62年前、国敗れた日の空の青さを思い出す。
学徒動員されて、日本海海岸の陣地の穴掘りをしていた。下痢してやせこけているのに、空腹だった中学生。あの日の昼のおかずは、たしかかぼちゃだったか。

そして、お盆明け。62年後のきょうの昼飯は、近所のイタめしランチ。白い皿にピザなどこぎれいに盛られた前菜。あつあつの海の幸スパゲッティ。エスプレッソ。これで千円。「ありがとうございます」の声に送られて、店の外の空が、青くまぶしい。
お礼を言うのはこっちなのに。いつも空腹で、食べられることが何よりもありがたかった時代を、忘れている。腹いっぱいたべられる、それがどんなに満足なしあわせだったことだったか。

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戦争末期、戦おうにも食べるものがなく死んでいった兵士たち。太平洋戦争に倒れた兵士の七割が、悲惨にも餓死といわれている。精神論だけの補給なき無謀な戦いだった。
昨夜、NHKハイビジョンのシリーズ証言記録「兵士たちの戦争」をみた。NHK全国の放送局で収集し記録したドキュメンタリー番組だ。
証言者は、ビルマ、フィルピン、中支の戦線で戦った元兵士たち。みな八十歳を越えている。重い口を開いて、若いアナウンサーの無神経とも思われる問いかけに、答える。
高齢の証言者たちの、おそらく生涯最初で最後と思われる証言の内容は、重く暗い。とつとつと、語られる。無表情に。あるときは、涙を浮かべ、あるときは、むかしの日本人特有のうすら笑いを浮かべて、さりげなく。

軍首脳のエリート参謀が立案した大作戦が、いかに思いつきで理不尽であったか。でも命令は絶対だった。辛くも生き残った生存者たちの証言は、申し訳なくて、とてもまともには見ていられない。

援軍も補給もない。密林のなか、空爆にさらされながら、武器も食料もない作戦だった。
打通作戦2000キロの長い行軍では、戦う前に、歩き続けるつらさに耐えかねて自殺する兵士が続出した。

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はじめから食料は現地調達と決められていたという。つまり住民からの略奪だ。食うものがないから仕方がなかった、と自嘲気味に語る最強軍団の兵士たち。

フィリピンでは、敗走して逃げ込んだ山の中には、食べるものがない。泥水をすすり、草を食った。「電気いも」は食うと内臓が腫れ、死に至る。倒れた兵士の顔の両頬がえぐられてないのを見たという元兵士の証言。きっと空腹に耐えかねて、人肉を煮て食ったのだろうと、ひとごとのようにいう。極限になれば人間はなんでもするとも。

いま、安倍首相をはじめ戦争を知らないひとが大半だ。この悲痛なドキュメンタリー「シリーズ証言記録」を、目をそむけずにみてほしい。冷厳な歴史の事実を見つめるのに、史観の自虐も自愛もないように思われる。
60年以上も、悲惨な歴史の生き証人たちは口を閉ざしてきた。かれらの最後の証言に耳を傾けるのが、ぼくたちのつとめではないか。
今のご時勢とあって、NHKもあえて目立たない時間帯を選んで放映しているように見受けられる。安倍内閣を取り巻く自民党の有志は、教科書を議論するまえに、史実を確かめてほしいと思う。

絶対の命令のもとに、「皇軍」がどう戦ったか。戦線でなにがあったか。なぜ300万人が命を落とさねばならなかったか。そして、それに倍するアジア各国の人たちが巻き込まれて、身の上になにが起きたか。
史実だけが物語るのだ。
あまりにも多い証拠、証言を検証し、事実を認めることから、すべてが始まるのではないか。

今回NHKから放映された次の番組からうかがえる戦没兵士の数は、そして、戦いに巻き込まれ戦没した市民、農民の数は、いったいどのくらいになるのだろうか。
いま、ちまたでは、死者に勇気づけられる「千の風に乗って」の曲が、静かに大流行しているといわれる。百万枚を突破したとか。

私のお墓の前で泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風になってあの大きな空を吹き渡っています

かれらひとりひとりが「千の風」になる。ならば、集まってとんでもない、怒りのパワーの台風エネルギーになるはずだ。                   
                      合掌

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証言記録 マニラ市街戦

第一回 西部ニューギニア 死の転進
佐倉歩兵221連隊
第二回 北部ビルマ最強部隊を苦しめた密林戦
久留米第18師団
第四回 退却支援 崩壊したビルマ戦線
敦賀歩兵119連隊
第五回 大陸打通作戦 苦しみの行軍2000キロ静岡歩兵34連隊
第六回 陸の特攻フィリピン最後の攻防 
岡山歩兵10連隊
第七回 ソ連国境知られなかった終戦
青森 野砲兵107連隊

投稿者 nansai : 17:56

2007年8月20日

八月二十日(月)

夏休みの宿題。Tシャツ。

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40度近くの猛暑なのに、町内の画廊で、若いアーチストたちが手芸品の展示会を開いた。
お題は、動物園。
枯れ木もヤマのにぎわいというわけで、南斎翁にも、声がかかって、マウスで描いた動物の絵をTシャツにして、若いひとの作品のなかに何食わぬ顔でまぎれこませた。

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うやむやのうちになんとか展示は終わったが、Tシャツはおもしろいテーマだと再発見。
Tシャツは、てくてく歩くポスターだし、たんすにしまっておいて、コレクトするにもカサばらない。

マウスを動かす即興描きなら、お手の物だ。
この手のひとりよがりアイデアなら、むかし取った杵柄(古いのお。とっくに死んだたとえだ。)で、ひねくりまわせば、なんぼでも浮かんでくる。省エネだから、くたびれることはない。

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かばやアリクイなど、ややこしい動物の細部はおぼえていないから、めんどうくさがらず、グーグルのイメージを検索して、適当なポーズとモデルを探す。

描くのがおもしろい。といっても、Tシャツは、じっさいにつくるとなると、意外に高価である。絵をはがきに印刷するようにはいかない。
お絵描きのコストよりもシャツの材料費と印刷費が高くつくのが、難点だ。パソコンのスクリーンで見るほうが安上がりで無難だろう。
風呂場で調子はずれの鼻歌をきげんよくうたっているように。

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小学生のころは、夏休みの宿題がだいきらいで、夏が終わるのがゆううつだった記憶がある。優等生のように何の苦もなく夏の終わりに宿題が提出できるクールなアタマの持ち合わせがなかった。

じまんではないがガキの頃から計画性がなく、その日その日をたのしくあそびほうけ、めんどうな宿題を先送りするレージーボーイ。
今は、セミの大合唱にも負けず、朝から、パソコンの前に座り込む毎日だ。自分で題を出して、提出義務もないのに、こうして絵日記みたいなのを描く。興にまかせて、勝手なものだ。
「猛暑日お見舞い」Tシャツは、どんなもんじゃろ。涼しげな絵柄を選んで、ペイントアンドマウスで、こちょこちょと。

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投稿者 nansai : 15:45

2007年8月10日

八月九日(木)

60年前、7発の原子爆弾が日本を狙っていた。無差別に何万人殺戮すれば、気が済むのか。

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原子爆弾の破壊力は、いまなお、実感されていない。
仕方がない?原子爆弾の投下は、明らかな戦争犯罪である。
指導者たちが、いかなる大義めいた言い訳を用意しても、それは許しがたい詭弁でしかない。
花で整然とかざられた慰霊の祭壇や千羽鶴で、原爆の被害のイメージ化がされすぎている。「核廃絶」も、耳たこの念仏だ。

ひゅるひゅると音をたてながら落下する原子爆弾。
爆発の、まさにその一瞬をドキュメンタリーにドラマ化したBBC番組を、一昨年に日本でもある民放が放映したが、なぜか、まったく話題にのぼらなかった。
タイトルが問題を提起していた。
「ドキュメンタリー USAテロリズム ヒロシマ原子爆弾。」
いま、ユーチューブでみることができる。
62年前、14万人が被爆死した広島のあと、長崎に落とされた原子爆弾の当初の目標は、小倉だった。
B29ボックスカーは、小倉上空の天候が悪く成果が確認しにくいから、目標を長崎に変更した。不運な7万4千人が犠牲となった。60年前の当時の状況は、ネットでウイキペディアをサーチすれば、知らなかった史実(戦勝者側の記録ゆえ、偏ってはいるとしても)が次々に、発見できて、ぞっとさせられる。

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おそろしいことに、つぎの原爆は、八月の17か18日の後の適当な天候の日をえらんで投下するときまっていたという。
続いて、立て続けに、九月に三発、さらに、十月に三発。日本の主要都市は、すでに相次ぐ空襲で破壊しつくされていたのに。

長崎に原爆が落とされた日、ぼくは、小倉の対岸の町の海岸にいた。本土決戦に備えて中学二年で陣地構築に動員されていたのだ。知らぬが仏だ。せまい海峡をへだてて、目と鼻の距離に、原爆は落とされたかもしれない。
あの夏は、空襲で焼け残った小学校の宿舎から、やせこけて下痢でふらふらしながら、毎日歩いて現場に通っていた。ラジオもないし、新聞も読めない日々で、戦況は不利としか、わからなかった。「新型爆弾」が投下されたときいたような気もするが、それが原子爆弾と知る由もない。威力などわかるはずもなかった。

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今公開されている資料をウイキペディアなどでみてみよう。
米軍の本土上陸のためのダウンフォール(帝国の没落)作戦は、十一月にせまっていた。
十一月一日のXデー上陸日までには、原爆7発が必要と、見込まれていた。
原子爆弾のような大量殺戮兵器は、当然市民を巻き込むのだが、情け容赦はない。当時の米軍の辞書には、「人道」はのっていなかった。まさに、鬼畜米国である。
なぜ市民をも巻き添えにする非道な大量殺戮兵器を用いるのか?戦争の早期終結が、アメリカの大義であるからだ。本土上陸をいそぎ、米軍の損害を最小にとどめたいと、マッカーサー将軍は主張したという。
日本軍の戦い方は、ここにきて、最後の一兵まで持ち場を死守し時間を稼ぐ主義だ。
沖縄、硫黄島などの戦闘からみて、最後まで降伏せず徹底抗戦する日本軍の戦いぶりから、米軍はおびただしい数の損害を覚悟していた。25万人から100万人と予測していたという。
人道への配慮をすてて、無尽蔵の物量をたのみに、時間と効率を重んじる兵力を温存する作戦だった。
もし陸軍が主張したように、国体を守るべく本土決戦にもちこんだら、その損害ははかりしれなかっただろう。

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本土上陸が近いとして、政府は昭和二十年六月に「義勇兵役法」が成立させた。
15歳以上60歳以下の男子、17歳以上40歳までの女子を戦闘員として「国民義勇戦闘隊」を結成する法律だ。「一億根こそぎ皆兵化」である。
何のために?国体を護持するためなのだ。醜(しこ)の御盾たらんというわけだ。すでに学徒動員されていたぼくらは、13歳だったが、もちろん知る由もなかった。
この法律が成立したとの情報を得た米軍は、それまで上陸作戦で、非戦闘員の子供、女性を殺傷することに躊躇があったが、「これで日本人はすべて戦闘員だ。徹底した無差別攻撃が可能との判断を下したといわれる。
この間のいきさつが、ウイキペディアのほか、「石油で読み解く、完敗の太平洋戦争」(岩間 敏著)に、詳しく記載されている。慄然とする。

ヒロシマ原爆では、ぼくと同年輩の中学生が犠牲になっている。中学の上級生は、県内の海軍工廠に
動員されていたが、終戦直前に空爆を受け、死傷者をだした。中学二年生だったぼくらは、何も知らされず、知ろうともしていなかった。

暑い八月。原爆慰霊祭が催され、死者が追悼される。

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年を追うごとに、記憶は風化する。悲惨な被災の状況を伝える語り部たちも、年老い亡くなってゆく。
追悼を英語で、REMEMBERという。思い起こして忘れないことだ。許すが、決して忘れない。
ぼくたち日本人は、過去を水に流そうとしてしまいがちだ。執念深くない、のが問題だ。

死者を弔い祈ることもたいせつだが、決して忘れない、そのための史実の学習が必要だと思う。いったい、なにがおきたのか。どうして20万もの人が、蒸発、命を瞬時に落としたのか。
ぼくは、インターネットで、ウイキペディア、それもできれば英語版と、向き合うことにしている。ウイキペディアは、いろいろな人がさまざまの角度から書き込まれた集合知の百科事典だ。敵味方彼我の歴史認識の差を知る必要があると思うのだ。
合掌しつつ、学ぼう。覚えておこう。





投稿者 nansai : 17:22

2007年8月 8日

八月八日(水)

中之島公園に、軍艦が隠れていた

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「大阪中之島公園 無名「戦争遺跡」、保存で論争」
と、こんな見出しが、日経新聞にのった。

日本海軍の軍艦のマストが、戦前から、なんと八十年の風雪に耐え、中之島公園の一隅に、敗戦後も人目を避けるように、ひっそりと建っていたというのだ。それが、ついに、この秋、公園の大改修工事で撤去ということになり、大阪市が市民団体ともめているとのことだ。

天神橋から見下ろすと、橋の下、西側の公衆便所の横に、茂みから顔を突き出すように、船のマストのような高い鉄塔がそびえている。
足元は、廃品回収のブルーのテントに囲まれていて、公園には場違いな風景だ。
国旗掲揚台としてつかわれていたらしい。だれが、いつの頃建てたのか。

中ノ島公園の東の突端を剣先といい、軍艦の舳先に似ている。ここで、大川は堂島川と土佐堀川の二つの流れに切り裂かれて、西へ向かう。
中之島を、大川を下る軍艦にみたてて、マストを建てたのだろうか。
なんぼなんでも、「無名」とは、軍艦が気の毒である。ネットには、なんでも記載してある。調べてみた。
艦名は、すぐ判明した。通報艦、最上(もがみ)だ。
哨戒船信濃丸は有名だ。日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊をいち早く発見、「敵艦みゆ」と打電した。どうもそれとは違うようだ。

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「最上」は、なかなかの高性能で、初めは通報艦だったが、日露戦争以後は、無線の普及で通報艦の存在意義が小さくなり、大正になって早々に一等砲艦に編入されたという。
最上は、明治41年に三菱長崎造船所で建造されたタービン艦で、排水量1350トン。乗員134人。当時わが国で最初に蒸気タービンを搭載したという。
日本海方面の警備や、青島攻略、シベリヤ出兵に参加したが、新技術タービンの老朽化が早く昭和3年に廃艦となった。昭和4年6月売却解体とある。

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青島攻略ではドイツ水雷艇を撃沈したとか、ほんまかいな。
1929年、廃艦売却後、大阪で解体の際、酸素ガスの火花で火災発生した。
あまり華々しい軍歴ではない。
その年は、大不況の前夜だったが、大阪府と大阪市が、同艦の前檣と後部艦橋を購入し、中ノ島公園に掲揚ポールとして使用したとある。

ひところは、軍艦旗が翩翻(へんぽん)と、川風にひるがえっていたのだろうか。

取り壊して芝生にしてしまうのは、もったいないかなあと思う。市民から寄付をつのり、修復しよう。まわりに、さくらでも植えて、名所にしたらいい。
戦災で焼け野が原になった大阪には、ストーリーのある名所があまりに少ないからだ。かつてはセーヌ川のようだった大川も、道路の橋脚がぶちこまれて、このざまだ。
昭和37年の台風で折損したが、財界が尽力して復元したらしい。
この軍艦は、悲惨な太平洋戦争の記憶とはカンケイがない。さびた艦橋からは、ああ、もう軍艦マーチは聞こえてこない。軍国主義の昔に帰ろうとするうごきの心配はないだろう。

ここらあたり、元禄時代は、中央公会堂南の栴檀木橋から東につきでて「山崎の鼻」と呼ばれたのは、備中山崎家五万石の屋敷がここにあったからだ。
百年後の明和四年、さらに東につきでた中州を築地し、中ノ島上の鼻新築地ができた。山崎の鼻にできた花街を、当時の人は、「風引き新地」と呼んだそうな。
川は、流れるのだ。

投稿者 nansai : 17:06