縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2007年8月 8日

八月八日(水)

中之島公園に、軍艦が隠れていた

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「大阪中之島公園 無名「戦争遺跡」、保存で論争」
と、こんな見出しが、日経新聞にのった。

日本海軍の軍艦のマストが、戦前から、なんと八十年の風雪に耐え、中之島公園の一隅に、敗戦後も人目を避けるように、ひっそりと建っていたというのだ。それが、ついに、この秋、公園の大改修工事で撤去ということになり、大阪市が市民団体ともめているとのことだ。

天神橋から見下ろすと、橋の下、西側の公衆便所の横に、茂みから顔を突き出すように、船のマストのような高い鉄塔がそびえている。
足元は、廃品回収のブルーのテントに囲まれていて、公園には場違いな風景だ。
国旗掲揚台としてつかわれていたらしい。だれが、いつの頃建てたのか。

中ノ島公園の東の突端を剣先といい、軍艦の舳先に似ている。ここで、大川は堂島川と土佐堀川の二つの流れに切り裂かれて、西へ向かう。
中之島を、大川を下る軍艦にみたてて、マストを建てたのだろうか。
なんぼなんでも、「無名」とは、軍艦が気の毒である。ネットには、なんでも記載してある。調べてみた。
艦名は、すぐ判明した。通報艦、最上(もがみ)だ。
哨戒船信濃丸は有名だ。日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊をいち早く発見、「敵艦みゆ」と打電した。どうもそれとは違うようだ。

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「最上」は、なかなかの高性能で、初めは通報艦だったが、日露戦争以後は、無線の普及で通報艦の存在意義が小さくなり、大正になって早々に一等砲艦に編入されたという。
最上は、明治41年に三菱長崎造船所で建造されたタービン艦で、排水量1350トン。乗員134人。当時わが国で最初に蒸気タービンを搭載したという。
日本海方面の警備や、青島攻略、シベリヤ出兵に参加したが、新技術タービンの老朽化が早く昭和3年に廃艦となった。昭和4年6月売却解体とある。

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青島攻略ではドイツ水雷艇を撃沈したとか、ほんまかいな。
1929年、廃艦売却後、大阪で解体の際、酸素ガスの火花で火災発生した。
あまり華々しい軍歴ではない。
その年は、大不況の前夜だったが、大阪府と大阪市が、同艦の前檣と後部艦橋を購入し、中ノ島公園に掲揚ポールとして使用したとある。

ひところは、軍艦旗が翩翻(へんぽん)と、川風にひるがえっていたのだろうか。

取り壊して芝生にしてしまうのは、もったいないかなあと思う。市民から寄付をつのり、修復しよう。まわりに、さくらでも植えて、名所にしたらいい。
戦災で焼け野が原になった大阪には、ストーリーのある名所があまりに少ないからだ。かつてはセーヌ川のようだった大川も、道路の橋脚がぶちこまれて、このざまだ。
昭和37年の台風で折損したが、財界が尽力して復元したらしい。
この軍艦は、悲惨な太平洋戦争の記憶とはカンケイがない。さびた艦橋からは、ああ、もう軍艦マーチは聞こえてこない。軍国主義の昔に帰ろうとするうごきの心配はないだろう。

ここらあたり、元禄時代は、中央公会堂南の栴檀木橋から東につきでて「山崎の鼻」と呼ばれたのは、備中山崎家五万石の屋敷がここにあったからだ。
百年後の明和四年、さらに東につきでた中州を築地し、中ノ島上の鼻新築地ができた。山崎の鼻にできた花街を、当時の人は、「風引き新地」と呼んだそうな。
川は、流れるのだ。

投稿者 nansai : 2007年8月 8日 17:06