縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2007年8月10日

八月九日(木)

60年前、7発の原子爆弾が日本を狙っていた。無差別に何万人殺戮すれば、気が済むのか。

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原子爆弾の破壊力は、いまなお、実感されていない。
仕方がない?原子爆弾の投下は、明らかな戦争犯罪である。
指導者たちが、いかなる大義めいた言い訳を用意しても、それは許しがたい詭弁でしかない。
花で整然とかざられた慰霊の祭壇や千羽鶴で、原爆の被害のイメージ化がされすぎている。「核廃絶」も、耳たこの念仏だ。

ひゅるひゅると音をたてながら落下する原子爆弾。
爆発の、まさにその一瞬をドキュメンタリーにドラマ化したBBC番組を、一昨年に日本でもある民放が放映したが、なぜか、まったく話題にのぼらなかった。
タイトルが問題を提起していた。
「ドキュメンタリー USAテロリズム ヒロシマ原子爆弾。」
いま、ユーチューブでみることができる。
62年前、14万人が被爆死した広島のあと、長崎に落とされた原子爆弾の当初の目標は、小倉だった。
B29ボックスカーは、小倉上空の天候が悪く成果が確認しにくいから、目標を長崎に変更した。不運な7万4千人が犠牲となった。60年前の当時の状況は、ネットでウイキペディアをサーチすれば、知らなかった史実(戦勝者側の記録ゆえ、偏ってはいるとしても)が次々に、発見できて、ぞっとさせられる。

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おそろしいことに、つぎの原爆は、八月の17か18日の後の適当な天候の日をえらんで投下するときまっていたという。
続いて、立て続けに、九月に三発、さらに、十月に三発。日本の主要都市は、すでに相次ぐ空襲で破壊しつくされていたのに。

長崎に原爆が落とされた日、ぼくは、小倉の対岸の町の海岸にいた。本土決戦に備えて中学二年で陣地構築に動員されていたのだ。知らぬが仏だ。せまい海峡をへだてて、目と鼻の距離に、原爆は落とされたかもしれない。
あの夏は、空襲で焼け残った小学校の宿舎から、やせこけて下痢でふらふらしながら、毎日歩いて現場に通っていた。ラジオもないし、新聞も読めない日々で、戦況は不利としか、わからなかった。「新型爆弾」が投下されたときいたような気もするが、それが原子爆弾と知る由もない。威力などわかるはずもなかった。

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今公開されている資料をウイキペディアなどでみてみよう。
米軍の本土上陸のためのダウンフォール(帝国の没落)作戦は、十一月にせまっていた。
十一月一日のXデー上陸日までには、原爆7発が必要と、見込まれていた。
原子爆弾のような大量殺戮兵器は、当然市民を巻き込むのだが、情け容赦はない。当時の米軍の辞書には、「人道」はのっていなかった。まさに、鬼畜米国である。
なぜ市民をも巻き添えにする非道な大量殺戮兵器を用いるのか?戦争の早期終結が、アメリカの大義であるからだ。本土上陸をいそぎ、米軍の損害を最小にとどめたいと、マッカーサー将軍は主張したという。
日本軍の戦い方は、ここにきて、最後の一兵まで持ち場を死守し時間を稼ぐ主義だ。
沖縄、硫黄島などの戦闘からみて、最後まで降伏せず徹底抗戦する日本軍の戦いぶりから、米軍はおびただしい数の損害を覚悟していた。25万人から100万人と予測していたという。
人道への配慮をすてて、無尽蔵の物量をたのみに、時間と効率を重んじる兵力を温存する作戦だった。
もし陸軍が主張したように、国体を守るべく本土決戦にもちこんだら、その損害ははかりしれなかっただろう。

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本土上陸が近いとして、政府は昭和二十年六月に「義勇兵役法」が成立させた。
15歳以上60歳以下の男子、17歳以上40歳までの女子を戦闘員として「国民義勇戦闘隊」を結成する法律だ。「一億根こそぎ皆兵化」である。
何のために?国体を護持するためなのだ。醜(しこ)の御盾たらんというわけだ。すでに学徒動員されていたぼくらは、13歳だったが、もちろん知る由もなかった。
この法律が成立したとの情報を得た米軍は、それまで上陸作戦で、非戦闘員の子供、女性を殺傷することに躊躇があったが、「これで日本人はすべて戦闘員だ。徹底した無差別攻撃が可能との判断を下したといわれる。
この間のいきさつが、ウイキペディアのほか、「石油で読み解く、完敗の太平洋戦争」(岩間 敏著)に、詳しく記載されている。慄然とする。

ヒロシマ原爆では、ぼくと同年輩の中学生が犠牲になっている。中学の上級生は、県内の海軍工廠に
動員されていたが、終戦直前に空爆を受け、死傷者をだした。中学二年生だったぼくらは、何も知らされず、知ろうともしていなかった。

暑い八月。原爆慰霊祭が催され、死者が追悼される。

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年を追うごとに、記憶は風化する。悲惨な被災の状況を伝える語り部たちも、年老い亡くなってゆく。
追悼を英語で、REMEMBERという。思い起こして忘れないことだ。許すが、決して忘れない。
ぼくたち日本人は、過去を水に流そうとしてしまいがちだ。執念深くない、のが問題だ。

死者を弔い祈ることもたいせつだが、決して忘れない、そのための史実の学習が必要だと思う。いったい、なにがおきたのか。どうして20万もの人が、蒸発、命を瞬時に落としたのか。
ぼくは、インターネットで、ウイキペディア、それもできれば英語版と、向き合うことにしている。ウイキペディアは、いろいろな人がさまざまの角度から書き込まれた集合知の百科事典だ。敵味方彼我の歴史認識の差を知る必要があると思うのだ。
合掌しつつ、学ぼう。覚えておこう。





投稿者 nansai : 2007年8月10日 17:22