縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2007年10月30日

十月三十日(火)

打たれたが、あっぱれだ。岡島投手

ことしのワールドシリーズには、注目した。両軍に日本人選手がいたからだ。松坂、岡島と、松井。
「一億ドルの男 ルーキーイヤー 至福のエンディング(毎日)は、4勝して優勝したボストンブレーブス松坂投手に捧げられた見出しだ。
ゲーム3は、空気の薄い標高1,600?敵地デンバーで、コロラドロッキーズを相手に、松坂はみごとに5回を投げきって、勝利投手となった。このところ結果の出なかったダイスケは、買い被りが裏目にでて期待されなくなって心配していたが、最後に意地を見せた。

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しかし、ぼくは、脇役の岡島投手をたたえたい。
シリーズ初登板での岡島投手の救援振りには、感動した。冷静な平常心で、歯を食いしばって、打者7人を凡打三振に討ち取った。相手ロッキーズの監督が絶賛したというからすごい。
フランコーネ監督の信頼はあつかったが、第三、第四戦では、いずれもホームランを浴び一点差に詰め寄られた。限界だったのだろう。
岡島は、シーズン66試合に登板した、縁の下の中継ぎだ。
今年はじめ、レッドソックスに移籍したが、岡島のあの投げ方で大リーグで通用するかと危ぶむ声が多かった。ぼくもその一人だった。

ダイスケの「ジャイロボール」は魔球だとか、鳴り物入りの松坂大輔の影にかくれていたが、今はどうだ?
日本の球界に見る眼がなかったのと、岡島のパワーを大リーグに通用すると見抜いたレッドソックスのコーチとの出会いが、幸いした。

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球を放す瞬間、キャッチャーミットから眼をそらし、下を向く。
あっち向いて、ほい。岡島投手の独特のピッチングフォームを何とか描いてみたいと思った。似ても似つかぬのは承知のうえで。

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変則といわれるだけあって、かなりむずかしい。
新聞やグーグルの写真を見ながら、マウスをこちょこちょまわしてスケッチする。
そのときのこっちの気分により、その都度描き方のタッチが、ふらふら一定しないのが、悲しいかな、しろうとのご愛嬌だ。
でも、ものは考えようである。型にとらわれない自由は特権でもあるのだ。思いつくまま無責任にいろんな型をあれこれ試みためすのは愉快だ。と、居直ることにしている。
ゴルフでは、これをテストハビット(ためし癖)という。コース上でやると、たたりでぼくはひどい目にあっているのだが。

投稿者 nansai : 12:57

2007年10月24日

十月二十四日(水)

偽装の赤福もちに「もったいない」の
いいわけは、もったいない?

大阪では、粟おこしなど往年の地元名産の影が薄くなった。かわって、伊勢名物のはずの赤福が、大阪駅で一番売れている大阪土産ときいた。たいしたものだ。
全国区に雑誌広告を出して、創業300年の赤福は順風満帆に見えた。

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あんやもちのようにいたみやすい商品を、工程の技術革新で、添加物がなく新鮮なまま、消費者にとどけている、というふれこみだったからだ。
ところが違った。
「生ものですからお早めにお召し上がり下さい」とは書いてあるが、手練手管のかぎりをつくして消費期限を偽るだけでなく、売れ残りの回収製品も冷凍し、消費期限をつけなおし再出荷していたという。
チェックの目は節穴か。行政も見抜けなかった食品衛生法とJAS法違反だ。
「客を欺く精神が許せない」と社説に掲げたのは、産経。「老舗よ、お前もか」(朝日)ほか、大新聞も非難ごうごうの弾幕を張っている。

追い詰められた社長は、「もったいない」という気持ちが社員にあったのだろう、と弁明した。自分は知らなかったが、と歯切れは悪かったが。

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だが、「もったいない」は、世界で認知された日本人の美徳とされている。
食べ残しなど食品の無駄は目に余る。コストダウンは、製造現場の正義であり、目標である。世は、リサイクル、再利用、資源の有効活用を叫ばれている。売れ残ったあんともちを「分別回収」して、何が悪い。食中毒になった客がいるかと、居直りたいところだろうが、うそはいけない。きれいごとをいって消費者をだましたことになると、とっちめられている。

テレビニュースを見ていたら、伊勢参りのお客はのんきなもので、赤福の店頭で、せっかくたのまれて買いにきたのに残念だと、にこにこ。閉まった店の前で、みな並んで記念写真を撮っている。お客さんはありがたいものだ。

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食糧危機かもしれぬ21世紀、「もったいない精神」は大事だ。
こぼした飯つぶをひろって食わされたぼくらからみて、コンビニなどの食品の大量廃棄も、これからはいかがなものか。衛生面にシビアな配慮が必要だが。

ぼくは、このけしからん赤福のためのアイデアを思いついた。一発逆転は、むりかもしれないが。

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お取り込みの最中に大きなお世話であるが、おわびのしるしに、つぎのような新?製品発売のごあいさつはどうか。
「長年の、そして今回の経験と冷凍再生技術を生かして、あんともちのリサイクル製品の開発に成功しました。味は変わりません。」
再生商品名は「白福」はどうだろう。
「もったいない」の気持ちは、たいせつに。
「従業員向けの社内販売価格で。よろしければ」として、老人ホームなどでお茶請けに、無料でくばって、罪滅ぼし。いいんじゃないの。

投稿者 nansai : 15:25

2007年10月18日

十月十八日(木)

もし、亀田がチャンピオンになっていたら?

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未曾有のバッシングのさなか、本人は自分で丸坊主になって一言も発せず、亀田親子は処分に全面降伏の感じで、「とりあえず」あやまって記者会見は終わった。
今度のフライ級世界選手権(しろうとで野次馬のぼくは、世界タイトル戦とは気がつかなかった)は、試合というより、事件になった。反則許すまじ。だれもが正義の味方で、裁判員になったのではないか。だからいわんこっちゃない。大新聞までも苦々しげに社説でとりあげた。
ぼくは、もし、何かの拍子で、亀田大毅が世界チャンピオンになっていたら、と考えてみた。
あの晩、リングサイドの実況アナは絶叫していたのだ。
チャンピオンの切れたまぶたの上の出血がとまらない。ドクターストップにでもなれば、「勝てますね」と。
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もし大毅が勝っていたら、世間は、マスコミは、どんなスタンスをとるだろうか。困ったかなあ。よおし、と張り切ったか。手のひらの返しかたは、とても興味深い。
「親子の絆」がテーマのテレビの特番が、次々に企画されよう。21世紀の「親孝行」として、美談化されるだろう。
勝ってなんぼや、何が悪い。こどものけんかに親が出て悪いか。父親の子育ての本が、ベストセラーになって書店の店頭に平積みされるだろうか。
激しいブーイングは前回もおきたし、抗議の電話も五万本と聞いたが、今回もすごかったが。

ボクシングは、ぼくのようなズブのシロウト目には、勝ち負けの判定が難しい競技だ。野球やサッカーやマラソンなどの、ほかのスポーツと違う。
12ラウンド打ち合って、どちらもダウンしない。
やせた33歳の世界チャンピオンが目の上を切り顔面ぼこぼこだ。
いっぽう、筋骨たくましい18歳の挑戦者は、涼しい顔。判定で大差がつくと、ブーイングを背中に浴びながら、健闘を讃えあうでもなく、さっさとリングをあとにした。
リングサイドの元世界チャンピオンは、判定ほど差はない、と言い切った。どうなっているのだ。
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事件性のおかげで、テレビ桟敷のぼくら野次馬も、あとで詳しく試合の内容を解説してもらい、にわか「反則通」になった。世界選手権試合はフェアなものと思っているから、びっくりだ。
ふうん、サミング、頭突き、目つぶし、抱え投げ、タマをねらう、いろいろあるもんだ。ボクシングをやっている人には常識でも、驚いた。

で、ボクシングには門外漢のぼくには、破天荒だった試合そのものよりも、後のテレビや新聞の報道がおもしろかった。
この試合をふくめての一連の騒ぎをめぐる人たちが、意見の立ち位置をかえる、あたふたぶりが、じつに興味深かった。
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ちょっとでも、ボクシングをかじった人は、怒りで震えるようだ。許せない。スポーツは、フェアで神聖だという思い込みが強い。
同じボクシング業界では、多少歯切れは悪いが、不快感を隠せない。ほかのえげつない格闘技に客を奪われて落ち目の業界にフットライトを浴びさせてくれたのだが。
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さて、世間様だ。
ぼくもその一員だが、ボクシングはわからないから、態度しか判定のしようがない。
「なにわの弁慶」とか、業界では悪役を「ヒール」というらしいが、ちんぴらやくざの役を振られて、得々と演じてきた。一流の振り付け師がついていたのだろう名演技だった。
年少者のくせに、先輩に敬意を払わない、礼儀知らず。顰蹙を買う挑発行為。不愉快だ。ざまをみろ、親の教育がなっていない、とか、世間様はにわか裁判員としてブーイングを浴びせる。
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世間にも、ひいきの引きたおしのグループがいる。
関西の地元だ。試合の後、熱唱する唄の追っかけファンもいるらしい。ぼくのタイガースとはちょっと違う。
亀田一家イコール関西と見ている人も多いらしい。
テレビにはびこる吉本イズム。しかたがない。同じように見てほしくないという声も。

いちばん、大きい正義のブーイングは、勧進元のTBSに浴びせられている。視聴率は、四十%近くに達してしてやったりのはずだったが。
ボクシングも、ショーにすぎない、という信念で、一糸乱れぬ大統領選挙のような売りだしキャンペーンが展開されたのだろう。成功してきた。
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だが、思わぬ展開になった。世間様の風当たりに、あわてて、局のなかでも、対応がまちまちだったようだ。
「愛局心」がばらばらにみえた。司会者やタレントたちが、急遽立ち位置を変えるのに、あたふたと右往左往する。これは見ものだった。
当人たちは、自分自身の人気、良識を守るのと、局への一宿一飯の恩義の板ばさみで、わかるねえ。

「あんたはずるい、距離をとって、打ち合わなかった」と、翌日のテレビでチャンピオンに、証拠のメモを取
り出してくってかかったタレントがいた。試合前で「君が代」を独唱した歌手である。
いやあ、それぞれ、忠犬ハチ公だ。みな生きるのに一生懸命だなと思ってきいていた。
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最後に、博愛主義者。訳知り。家庭裁判所。死刑廃止論者だ。
まだ18歳のこどもじゃないか。何も知らないのだから、親の責任だ。才能の目をつんではいけない。将来の世界チャンピオンになれる素質が、みてとれる。
などなどだ。

18歳の未成年。でも、ぼくは、すべて、自己責任だと思う。
まわりに影響されるのはしかたがない。これほどマスコミに持ち上げられたら、振り落とされたら、狂うのは当たり前だ。
視聴率の犠牲。果たせなかった父親の野望。跳ね除けるのは難しいが、自分の人生だ。
誰からも相手にされない若者は、ほかにはいて捨てるほどいる。
他人がとやかくいうことではない。大きなお世話だ。

ただ、テレビや出版、ゲームの興行師たちのがんばりで、亀田一家のスタイルが、社会現象になり、そのまんま、夕刊紙の一面に登場するのにはご勘弁願いたいものだ。ネオ亀が、青少年の憧れの理想像になっても、どうかねえ。
脅しのちんぴらの物言いが、大阪弁代表とみなされるのも迷惑だし、うんざりだ。
半世紀前は、不運にも、同じ年代の若者たちが、戦争に駆り出され、帰らぬ人になったことも思い出した。

投稿者 nansai : 13:56

2007年10月12日

十月十二日(金)

歴史の教科書で学んでほしいことは、なにか

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半世紀も前、太平洋戦争の末期に、沖縄でなにが起きたか。あと数ヶ月で、日本が連合軍に無条件降伏する土壇場だった。
本土にいるぼくたちは、あまりにも知らなさ過ぎたし、知ろうとしなかった。グーグルかヤフーに、「沖縄戦」と入れて検索してみよう。

昭和二十年、太平洋戦争末期の沖縄戦は、55万人のアメリカ軍(上陸部隊18万人)と12万人の日本軍が戦い、民間人を巻き込んだ日本側の死者は、三ヶ月で20万人を越えた。
悲惨にも、海に囲まれて逃げ場のない非戦闘員15万人が死亡した。
ほとんどが米軍の熾烈な砲撃爆撃による犠牲者だが、ところによっては、洞窟に逃げ込んだ住民が集団自決に追いやられた。
女子供老人、非戦闘員も、軍民一体で戦い、生きて捕虜になることを恐れたからだ。

ことしになって、この集団自決に、軍の命令はなかったとして、教科書の記述が削除された。それをめぐって、沖縄県民が抗議の声をあげている。

この91式手榴弾は、7,8秒で爆発する。死を選ぼうとした住民たちは、車座になって、手榴弾を爆発させたと伝えられる。

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当時、手榴弾の材料の金属が不足していて、丹波などの窯元で製造された陶器製も使用され、不発事故も多かったという。
手榴弾が入手できない場合、やむなく、最愛の家族同士が、カマや棒で殺しあう悲劇も。地獄としかいいようがない。

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沖縄の場合、集団自決した人々は、十万人の尊い犠牲者のうちの一部である。それなのにである。
日本軍が命令で関与したかどうか、世界でもまれな集団自決を教科書にどのようにとりあげるか。問題は、歴史認識から外れて政治問題になってしまった。反日、売国奴、自虐史観と、相手を呪う言葉が飛び交う。
地元住民のデモの数におびえて教科書を書き直してもよいのかという大新聞の意見も出てくる。
高名なノーベル賞作家が裁判で争い、大新聞どうしが口汚くののしりあうといった有様である。

そんな教科書の記述をめぐる争いよりも、大事なことがある。
昭和二十年、沖縄でなにが起きたか、史実を集めて歴史に残し、戦争を知らないひとたちの胸にしっかり刻むことが大切だと思う。
そして、なぜと問いたい。それが歴史認識だろう。

沖縄でどうしてこのような戦いが起きたか、なぜあれだけ多くの住民が戦いに巻き込まれてなくなったのか、後世の人が考える史実をできるだけ忠実に伝えるべきだろう。
あわせて、昭和のはじめからの太平洋戦争にいたるまでのいきさつを伝えねばならない。なぜ300万人の日本人が命を落としたのか。なぜ。
そして、日本軍が戦争に巻き込んで、なくなったアジアの人たちの犠牲を、どう受け止めるか。

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沖縄戦に限らず、戦争は、殺戮以外のなにものでもない。ウイキペディアで、殺戮の歴史をみてみよう。

たいていの兵士は、徴兵される前は、ふつうの農民や市民だ。
戦場は、かれら、ごく普通の人間を、殺戮に駆り立てる。かれらを突き動かす動機は、なにか。
刷り込まれた大義だけでなく、恐怖、報復、疑心暗鬼など、異常な心理状況による。
命令のあるなしにかかわらず、軍隊が、兵士が、狂うときは、敵の戦闘員と一般民衆が見分けがつかぬ極限状況においてである。市街戦、ゲリラ戦は、大量殺戮につながりやすい。
勝った側は、戦闘を終結させるために、殲滅をはかる。圧倒的な武力で優位に立ち制圧できるとき、無抵抗の相手が、特に民衆が殲滅の犠牲となる。殲滅、掃蕩は命令によることが多いのだ。
NHKのドキュメンタリー兵士の証言をみても、命令だからしかたなかったと兵士たちはいう。ある元兵士は平然と、ある元兵士は涙を浮かべて。

どのような大義をかかげようとも、どの時代の、どの国の軍隊も、例外ではないと歴史は教えている。
この史実を、戦争を知らないひとたちに伝えたい。
戦争とはなにか。おぞましい戦場の極限状況を知らないひとたちに学習してほしい。
歴史だけが、教えてくれる。

NHKの2005年制作のドキュメンタリー「沖縄よみがえる戦場」は、みておくべきだろう。いま深夜に再放送されている「証言記録・兵士たちの戦争」は、アジア太平洋戦争で、わが皇軍がいかに戦ったか、ぼくたち銃後の国民がしらなかった史実を教えてくれる。
このドキュメンタリー・シリーズは、戦争を知らない政治家たちに、「ご議論」の前に戦争の現実を学習できる機会を与えてくれるだろう。若い世代には、丸暗記のための教科書よりも、この日米双方の映像資料による証言をみてほしい。
修羅場を経験してかろうじて生き残った証人たちは、戦後60年たち、押し黙ったまま、次々に世を去っている。何が起きたかを思い出し語るのは、あまりにつらいから。

集団自決に軍のかかわりはなかったとして、教科書記述を改訂しようとした勢力は、いったいだれなのか。
安倍内閣時代の文部科学省の動きは、見過ごせないと思う。

戦争末期、日本は国全体がおおきな感情に突き動かされていた。国を守るということは、一億玉砕してまでも国体を護持することで、沖縄の住民を守るということは、軍の戦略としては考慮外だった。
毎日新聞那覇支局の三森輝久氏は、「記者の目」欄にこう書いている。
「沖縄戦は、本土防衛の時間稼ぎのため日本軍が展開した「出血持久戦」だ。軍民混在の状況下で組織的抵抗が三ヶ月続いた。この過程で、日本軍が住民を壕から追い出したり、食料を奪うなどの虐待が各地で起こった。スパイ視の挙句に殺害した例もある。県民の犠牲者数は、いまも不明で、9万から16万人まで見方がわかれる。」

自分を、天皇陛下の「醜の御楯」と思え。大君の辺にこそ死なめ、省みはせじ。今の人たちには信じがたいことだが。ぼくらは、こう教わった。

中学二年生のぼくらは、もう本土決戦のための海岸陣地構築に動員されていたが、遠く海をへだてた沖縄戦の悲惨な戦況は、まったく知らされていなかった。

沖縄戦に勝利して、アメリカ軍は、Operation Downfallを発動する計画だった。十一月一日のXデーまでは、7発の原子爆弾を投下し、九州に35万の米軍が上陸の手はずになっていた。

かれらの見積もりによれば、日本制圧には、米軍170万から400万人の死傷者(戦死者40万人から80万人)が予想された。
対する日本側の損害は、本土防衛に大規模な市民が動員されると仮定して、500万人から1000万人であった。
過去のノルマンディーや硫黄島、沖縄戦から類推して計算された数字であろう。(戦時庁スティムソンのスタッフ、ウイリアム・ショックリーに。ウイキペディアから)
中学二年生のぼくは、沖縄戦と同時期に本土で陣地構築に動員されていた。
沖縄に向かって出航した戦艦大和が沈没したことも、連合艦隊が壊滅したことも、まったく何も知らなかった。このオリンピック作戦の全貌?も寡聞にして、ネット上で、60年後に初めて知ったのである。

投稿者 nansai : 16:40

2007年10月10日

十月十一日(木)

たそがれコンサート予告

ことしも、会社の前の公園で、町おこしの「たそがれコンサート」が開かれる。有志肝いりの豪華プログラムだ。バイオリン、アコーディオン、太鼓と、毎晩、演目がかわる。入場無料。

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オンチの南斎も、ボランティアでポスターの絵を描くことに。以下は、アイデアスケッチだ。

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赤いとんがり三角は、公園の遊具で、これをシンボルにしては、というわけ。これからこの界隈の名物イベントになれば、縮めて、「たそコン」とよべばいい。これから三十年たって、ここが「三丁目の夕日」として子供たちの記憶に残るかもしれない。
絵のほうは、ちょうど「衛星探査機かぐや」がおじゃましているお月さんから、ウサギ君に出演を依頼した。

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もともと大阪城内だったここら界隈は、水の都のへそにあたる。歴史はふるく、平城、平安時代にさかのぼる。すぐそばに、熊野街道に通じる御祓い筋。公園の下は、名高い八軒家船着場でにぎわったところ。万葉集にでてくる難波津も近くにあったという説も有力だ。
この千年以上前の歴史のある街をなんとか、盛り立てたいものだ。盛況を祈ろう。

投稿者 nansai : 18:03

十月十日(水)

きょうは、オリンピックの日と思ったら、「転倒防止の日」らしい。朝のラジオで聞いたが、テン(10)とトオ(十)のごろあわせで、高齢者のための「ころばぬ先のキャンペーン」でもなさそうだ。

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安倍元首相が劇的にこけた日、ぼくも地下鉄の階段をふみはずし転倒。くるぶしをくじいて動けなくなった。
三週間たって、はれもほとんどひいて、くつもはけるが、軽いびっこをひいて歩く姿は、どうみてもペンギンだ。
階段をあがるときなど、いためた右のくるぶしに体重がかかると、あいて、て。まだ多少いたむ。すたすた歩けるにはもう少しかかりそうだ。

ついでに、十月十日は、じゅうじゅう、焼ける音ににちなんで、「お好み焼きの日」なんだそうな。


投稿者 nansai : 11:58

2007年10月 1日

九月二十八日(金)

ピリオドの日。
どうなることかと心配していたら、阪神、8連敗にピリオド。中園の好投、復帰した林の一振り。若手のふんばりで、まずは、やれやれ。

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その夜、堂島中町のショットバー「デワ―ハウス」がひっそりと四十九年の歴史を閉じた。こちらは、いささか切ないピリオド。入居しているビルが取り壊されるらしい。
昭和がまた遠くかすんでゆく。
ほんまに知る人ぞ知るだった。このスコッチバーは、昭和三十年代のサラリーマンのぼくにとっての青春のアーカイブだった。あのコロは、よう飲んで、よう働いたなあ。

昔の毎日会館の対面の地下一階。看板が小さくて地上を通る人はつい見過ごしてしまう。転げ落ちそうな急な階段を下りると、この4坪ほどの隠れ家風たたずまいは、古色蒼然、昭和三十四年創業時とまったく変わっていない。階段下つきあたりのトイレは、向かいの居酒屋との共同便所だ。

知る人ぞ知る。開店当時は、それはたいしたもんだった。
大阪じゅう、屋上地下、いたるところビアホールが乱立し、安いうまいトリスバー全盛時代で、「ホワイトラベル」のような舶来スカッチは、薄給のぼくら平社員には、神々しく近づきがたい存在だった。
おそるおそる緊張して、上司に連れてきてもらった晩を昨日のことのように覚えている。(すごいことに、半世紀も前、その日撮られた写真が、きちんと整理されて、店のアルバムに貼りつけられているのだ)

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「はーい、動かないで」と、先代のバーテン矢持さんが、要望があれば、超スローシャッターで客の写真を名機ニコンSPで撮ってくれたものだ。白黒だがかたっぱしからアルバムに張って、それを誰にもオープンに見せるサービス?が自慢のアイデアだった。
連れてきた女性と並んで撮ってもらうのだが、プライバシーなんか平気だ。個人情報が今ほどうるさくない時代の顧客管理のはしりだった。
バインダーがはずれてぼろぼろになった百六十冊?のアルバムが、昭和の高度成長時代からの越しかたをクールに記録している。
昭和三十年代のぼくの若き日のやせてとんがった顔も、かけだし当時の名刺といっしょに残されている。青春の過去帳のようなものだ。
往時茫茫、堂島通りをへだてて毎日放送のスタジオが対面にあったころは、スターたちも時間つぶしに訪れた。ビデオ以前のキネコ撮りの時代だった。

別に上得意ということでもなかったが、古顔として、忘れた頃に友人たちとぶらり訪れた半世紀。お世話になりました。時代を超越して、このバーは、表情を変えず客にこびず飄然としたところが好ましかった。(近年は、タウン誌などで男の隠れ家風に見直されてきたようだが。)

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スカッチしか出さない。しかし、スノッブめいたところがみじんもなく、いわしなどの缶詰が積み上げられた棚から勝手につまみを選ぶ。水割りの水はミネラルではなく水道水をボトルに入れ冷蔵庫で冷やした。
「ここの水割りは薄いから、何十年も飲んでも悪酔いせず胃を壊さないのだよな」と、ぼくらはよく悪態をついた。

さして飲めもしないくせに談論風発して深夜まで粘るぼくらの頭上に先代バーテンダーの矢持さんが、ロープを張ってまだぬれた布巾をつるす。ぽたぽたしずくが落ちてきそうだ。
頼むから帰ってくれえ、の信号旗だったのもなつかしい。
ありがとう。さようなら。お世話になりました。

大阪がまだ元気だったころの話だ。
デワーハウスが生まれて二年目、昭和36年秋の第二室戸台風で、高潮の泥水が堤防を乗り越え、中之島一帯水浸しになった。
あのころから大阪が変貌し、背の高くなった防潮堤で大川の水面が見えなくなり、川の中にくいをぶち込んで高速道路の橋脚とした。パリのセーヌに似た水の都の風景も消え、東京一極集中に一直線へ。トリスもスカッチも、いまは焼酎に好みが変わった。

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閉店の晩、ぼくなりのレトロな、こころの「玉手箱」を小脇にかかえ、ころげおちないよう用心しながら急階段を降りて、なかをのぞいてみた。
当然、ぼくは浦島太郎である。
あ、お呼びでない?振り向いてくれる旧知の客は、いようはずもない。
子か孫のような見知らぬ若い世代のひとたちで狭い店内は込み合っていた。

「こころぼそさに ふたとれば、
あけてくやしき たまてばこ」

投稿者 nansai : 16:24