縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2007年10月 1日

九月二十八日(金)

ピリオドの日。
どうなることかと心配していたら、阪神、8連敗にピリオド。中園の好投、復帰した林の一振り。若手のふんばりで、まずは、やれやれ。

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その夜、堂島中町のショットバー「デワ―ハウス」がひっそりと四十九年の歴史を閉じた。こちらは、いささか切ないピリオド。入居しているビルが取り壊されるらしい。
昭和がまた遠くかすんでゆく。
ほんまに知る人ぞ知るだった。このスコッチバーは、昭和三十年代のサラリーマンのぼくにとっての青春のアーカイブだった。あのコロは、よう飲んで、よう働いたなあ。

昔の毎日会館の対面の地下一階。看板が小さくて地上を通る人はつい見過ごしてしまう。転げ落ちそうな急な階段を下りると、この4坪ほどの隠れ家風たたずまいは、古色蒼然、昭和三十四年創業時とまったく変わっていない。階段下つきあたりのトイレは、向かいの居酒屋との共同便所だ。

知る人ぞ知る。開店当時は、それはたいしたもんだった。
大阪じゅう、屋上地下、いたるところビアホールが乱立し、安いうまいトリスバー全盛時代で、「ホワイトラベル」のような舶来スカッチは、薄給のぼくら平社員には、神々しく近づきがたい存在だった。
おそるおそる緊張して、上司に連れてきてもらった晩を昨日のことのように覚えている。(すごいことに、半世紀も前、その日撮られた写真が、きちんと整理されて、店のアルバムに貼りつけられているのだ)

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「はーい、動かないで」と、先代のバーテン矢持さんが、要望があれば、超スローシャッターで客の写真を名機ニコンSPで撮ってくれたものだ。白黒だがかたっぱしからアルバムに張って、それを誰にもオープンに見せるサービス?が自慢のアイデアだった。
連れてきた女性と並んで撮ってもらうのだが、プライバシーなんか平気だ。個人情報が今ほどうるさくない時代の顧客管理のはしりだった。
バインダーがはずれてぼろぼろになった百六十冊?のアルバムが、昭和の高度成長時代からの越しかたをクールに記録している。
昭和三十年代のぼくの若き日のやせてとんがった顔も、かけだし当時の名刺といっしょに残されている。青春の過去帳のようなものだ。
往時茫茫、堂島通りをへだてて毎日放送のスタジオが対面にあったころは、スターたちも時間つぶしに訪れた。ビデオ以前のキネコ撮りの時代だった。

別に上得意ということでもなかったが、古顔として、忘れた頃に友人たちとぶらり訪れた半世紀。お世話になりました。時代を超越して、このバーは、表情を変えず客にこびず飄然としたところが好ましかった。(近年は、タウン誌などで男の隠れ家風に見直されてきたようだが。)

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スカッチしか出さない。しかし、スノッブめいたところがみじんもなく、いわしなどの缶詰が積み上げられた棚から勝手につまみを選ぶ。水割りの水はミネラルではなく水道水をボトルに入れ冷蔵庫で冷やした。
「ここの水割りは薄いから、何十年も飲んでも悪酔いせず胃を壊さないのだよな」と、ぼくらはよく悪態をついた。

さして飲めもしないくせに談論風発して深夜まで粘るぼくらの頭上に先代バーテンダーの矢持さんが、ロープを張ってまだぬれた布巾をつるす。ぽたぽたしずくが落ちてきそうだ。
頼むから帰ってくれえ、の信号旗だったのもなつかしい。
ありがとう。さようなら。お世話になりました。

大阪がまだ元気だったころの話だ。
デワーハウスが生まれて二年目、昭和36年秋の第二室戸台風で、高潮の泥水が堤防を乗り越え、中之島一帯水浸しになった。
あのころから大阪が変貌し、背の高くなった防潮堤で大川の水面が見えなくなり、川の中にくいをぶち込んで高速道路の橋脚とした。パリのセーヌに似た水の都の風景も消え、東京一極集中に一直線へ。トリスもスカッチも、いまは焼酎に好みが変わった。

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閉店の晩、ぼくなりのレトロな、こころの「玉手箱」を小脇にかかえ、ころげおちないよう用心しながら急階段を降りて、なかをのぞいてみた。
当然、ぼくは浦島太郎である。
あ、お呼びでない?振り向いてくれる旧知の客は、いようはずもない。
子か孫のような見知らぬ若い世代のひとたちで狭い店内は込み合っていた。

「こころぼそさに ふたとれば、
あけてくやしき たまてばこ」

投稿者 nansai : 2007年10月 1日 16:24