縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2007年11月27日

歳末、猫のお絵描き棚おろし

十一月二十七日(火)

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年末をむかえ、ただよってくるインフレの異臭で、世の中キナくさくなった。オイルショック、はたまたサブプライムのバブル破裂と、あぶくゼニが世界じゅうを回りまわって悪い兆しが、あちこちに露呈だ。
ぼんやりと年賀状の干支の絵でねずみをもてあそんでいると、ちょっとあきてきて、むしょうに相棒の猫の絵を描きたくなった。猫の写真は、デジカメの普及で、いま、大ブームだ。
猫のお絵描きはどうか。種類がいろいろで、三毛や縞や、柄も複雑
なので、しろうとが描こうとすると意外に難しい。大画家の晩年の作品に名作が見受けられる。では、猫の絵は、このネット上にどのくらい存在するのだろう。

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気になって、グーグルで調べてみた。猫とイラストレーションといれて、検索。おるわ、おるわ、世界中でその数なんと、今日現在で三千四百八十万匹だ。(検索ロボットが探すのだから、かなりあやふやではあるが)ぼくも、仲間に入れてもらおうと、もう数匹の仲間を投入することに。
せっかくだから、昔描いたネコも呼び出そう。過去、描き指しがアーカイブに眠っているのを、ひっぱりあげて、いまいちど手をいれてみた。例によって、絵のタッチは、シリメツレツというか、そのときの気分しだいで、ばらばらである。

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ぼくは、マウスを使って絵のようなものを描くが、それには、ぼくの手に負えるテーマとモデルが必要である。猫は、格好の目標だ。
上等な猫は飼ったことがない。わが家には、三歳の元野良猫(メス)がいる。なんら特徴のない平凡なキジ猫である。こいつの動きを観察する。朝な夕なながめているとデッサンに自信のないぼくも、いつのまにか彼女の伸びをするかたちが取れるようになった。かな?
でも、ねこは、むつかしい。新聞や雑誌、グーグルイメージなど、人の撮った写真を見て描くのが、らくでおもしろい。70歳を越えて絵を描き始めたモーゼスおばさんも、広告写真などを見てヒントにしていたらしいというから。

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猫の種類は多すぎて、とてもおぼえきれない。うちにいるモデルはただのキジねこである。いつも食卓のうえにすわっているから、こんな見返り美人のポーズも拝見できる。

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愛すべきネコの写真は、テレビ、新聞、雑誌に氾濫している。
写真の動かないポーズを描くのは、やさしいようで骨がおれる。
マウスで一所懸命スケッチしても、ちゃんと似せて描くのはむつかしい。似ても似つかぬというな。デッサンがくるってゆがんでいるからこそ、期せずして、適当にいい味が出せているんじゃ、というのが、ぼくの言い分。それはどうかな?

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めすネコはすぐおかあさんになって子を産む。かわいがるなら、産ませないように。つぎつぎに生まれる子ねこがかわいそうだから。

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動物を人間に見立てて、二足歩行させるのは、かんたんだ。
これは、元来猫背のネコに背筋を伸ばしてもらって、一流モデルを気取らせた。

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八軒家南斎のこのような閉鎖的BLOGは、個人の文箱やノートみたいなもので、ただ、ふたがない、かぎがかけてない。
思いつきの走り描きだが、こうして陳列してみると、画廊の世話にならない個展のようなものだ。集客の必要もない。誰の迷惑にもならないのが気に入っている。
なかには、へえ、これ、自分で描いたの?というような発見もあっておかしい。ころっとわすれている。猫がねこじゃらしにじゃれるように描くときは興奮しているが、すぐにあきてしまったのだ。

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面白いことに、思いつきはすぐ忘れるが、面白い。この黒頭巾をかぶったねこは、「ニャンじゃ」と名づけた。ねずみ小僧とからめて、物語がでっちあげられそうだ。テレビをみていたら、おとなのアメリカ人にも、忍者が人気で黒装束ですぐまねをするのが面白かった。

準備の要らない安直なお絵かきは、画用紙も絵筆のいらないペイントをつかえばよい。絵の具がいらないから、いくらでも色が使える。描きなおしは、自由だ。くたびれるまで、あきてしまうまで。

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投稿者 nansai : 12:08

2007年11月21日

お年始の贈り物に、ネズミはいかが?

十一月十七日(土)

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ことしの年末は、日本中の郵便ポストに数億匹のネズミの大群がいっせいに飛び込むにちがいない。干支のネズミは年賀状の主役だからだ。
「年賀状は贈り物だと思う。」と、日本郵政の広告はいう。40億枚年賀はがきを売りきりたいらしい。
コピーの意図はよくわからんが、その年賀状に、干支に選ばれたとはいえ、ねずみは、騒がしく清潔とはいえない。アイデアとしても、姑息かつ陳腐である。
いかがなものか。さて。

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と、いちゃもんはつけたものの、ほかに策がないし、干支のネズミをアイデアで料理するのは例年おもしろい仕事なのだ。

ネズミの絵は、雪舟からウオルトディズニーにいたるまで、古来、名作が多い。ミッキーマウス、メイジー、レミーと、漫画、絵本、映画の愛らしい大スターぞろいだ。
ミッキーマウスは、きょう七十九歳のサイン誕生日を迎えた。老いてますます矍鑠たるミッキー爺さんに負けず、いちびって、迷作にいざ挑戦といこう。

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ぼくのような年になると、年賀状を出す先がだんだんほそってくるのはしかたがないことだ。

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手はじめに、まず四つんばいのネズミをむりやり直立二足歩行させる。正月のめでたい行事に参加させたり、人間さまのするスポーツのポーズをとらせたり。
ときどき、ネズミに見えず、キツネやイヌやクマに見えたりする。

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書初め、たこあげ、ゴルフ、サーフインとかボクシングとか、運動させてちょこまか動かす場合と、じっと静止させる場合といろいろである。
なにしろ思いついて突如パソコンに向かいマウスを動かすので、ネズミのタッチは、気分により、ばらばらである。

としのせいにはしたくないが、われながらいいアイデアが浮かんでも、シャボン玉みたいにはじけて消えてしまう。それもご愛嬌。思い出せなくても、また思いつけばいいやとあきらめる。
しばらくすると、なんのことはない、とっくの昔、マイピクチュアにしまいこんでいたのを忘れていた、ということがままある。パソコンは、老人の記憶ロボットだ。アーカイブの無限のしまいこむ能力を利用せねば。

干支の場合、さるや馬などほかの動物を擬人化したときのを、そのまんまいただいて、首をすげかえる。
人間の動きに見立てているから、これはうまくゆく。
絵を描くとき、ネットは、覚えていないこと、知らないことを教えてくれる。昔の赤い郵便ポストのかたちもスノーボードのからだのひねりも、みなグーグルの「イメージ」を参照すれば教えてくれるのだ。


これは、お世話になっているお隣のイタリア料理店のための年賀ポスター案である。たのまれたわけではないが、アーカイブから引っ張り出して、2008年改定バージョンに。とりあえず大阪でミシュランひとつ星をねらうべく頂点を目指す祈りをこめておいた。
主人シェフは、どうも白い歯をむきだした熊の顔が気に入らぬようだったが。
なぜ、スノーボードか。じつは、愛媛県の高校生がスノーボードでオリンピックを目指すニュースをみたばかりだった。世界に通じる実力の持ち主なのだ。


下らぬアイデアには、きりがない。ことしは、ちょっと、新機軸を思いついた。
月探査機「かぐや」からハイビジョンで撮った38万キロさきの地球。この美しい映像を使わせてもらおう。
来年の年賀状には、おそらく定番の初日の出をしのいで、初地球の出(舌をかみそうだ)の写真があしらわれることだろう。
この息をのむ映像にそえるには、「謹賀新年」では味気ない。賀正いがいに、いろいろありそうだ。

真っ暗な宇宙にぽつんと浮かぶ孤独な地球の姿。
おーい、まだ水はあるのか。緑は茂っているのか。

こんなのはどうだろう?ディズニーにとっちめられるかな。地球ネズミ?

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投稿者 nansai : 12:17

2007年11月13日

十一月十三日(火)

ポピーデー

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英国では、女王も首相も閣僚も、その日は赤いひなげしの造花を胸につけている。
十一月十一日が「ポピーデー」だ。正式には、リメンバランス デーと呼ばれ、英連邦諸国では、国を挙げて戦没者を追悼する日という。二つの世界大戦とそのほかの紛争で亡くなったすべての男女を偲ぶ特別の日と定められている。

国中のみなが、午前十一時に、二分間の黙祷。つづいて、各地で在郷軍人が行進する。ホワイトホールの戦没者記念碑には王室のメンバーと、政治家が集まり献花する。
十一日に近い日曜日は、追悼サンデーと呼ばれて、教会で儀式があげられ、各地の記念碑に花輪が捧げられる。二分間の黙祷につづき、ラッパが吹かれ、ビニヨンの詩「斃れし者に」が朗読される。
もし十一日がウイークデーに当たっても、学校、職場、ショッピングセンターで、万難を排して、「二分間サイレンス」はおこなわれる。

1918年のこの日は、第一次世界大戦の終戦の日だ。その年の十一月十一日午前十一時、西部戦線の砲火がやんだ。数百万人が死傷した4年以上の悲惨な戦闘のはてに。

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午前十一時きっかりに「二分間サイレンス。」が始った。
電車はエンジンを止め、車も息をひそめる。帽子を取る人もいる。頭をたれる人も。あちこちで、年老いた元軍人が、気をつけの姿勢をとる。おばあさんが涙を拭いている。みなが静かに立ち尽くしている。
以上は、1919年のロンドンの街角での初めての「二分間サイレンス」の模様を、当時の新聞が伝えた記事からだ。

赤いひなげしの花が、百年も前からの、国に命を捧げた戦没者に、厳粛に思いをいたすシンボルになっている。赤いおしゃれな紙の造花が町で売られており、在郷軍人の支援にあてられているらしい。

なぜポピーなのか。その由来も語り継がれている。
激しい砲撃で西部戦線の激戦地フランダースの地面が掘り返され、地中に眠っていたポピーがいっせいに花開き、一面の花畑になったといわれる。「フランダースの野原にて」という、戦死したカナダの軍医の作った詩が、いまに詠みつがれている。

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NHKの海外ニュースでみて、BBCネットを掘り返してみた。
BBCの第二次世界大戦アーカイブは、戦後60年を記念して、将来に向かって永久保存を願い昨年改訂された。
このサイトにはおびただしい死者の情報(15000枚の写真、47000の取材)が記録され、いまもなおサーチボックスが設置され情報提供が求められているのだ。NHKにもぜひ見習ってほしい。祀るのではなく、忘れないという気持ちがたいせつではないか。
国のため命を捧げた死者たちに、あなたがたを決していつまでも、決して忘れない、という思いは同じだが、追悼のしかたは、国や宗教によって当然違うわけだ。だが、戦後、半世紀をすぎ、わが国の行き詰った靖国論争も、はやく前向きに、解消せねばなるまいと思った。

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BBCの戦没者を弔うためにしつらえられた幾多のアーカイブを見て考えた。
デジタル時代の死者を追悼する記念碑は、石にきざむのではなく、記録のために必要な無限の空間と時間の待つネットに、アーカイブすべきだろうと。

国費により、NHK制作で、デジタル戦争博物館を建立するとよい。戦争により非業の死を遂げた三百万人の死者を弔い、正しい歴史観を後世に伝えるための史料をそこに蓄積編集すべきだろう。
国立デジタル戦没者記念戦争史料館。
21世紀に立ち上げるべき公共事業の「ハコモノ」こそ、戦没者を弔うための墓地ではなく後世に伝える情報デジタルアーキテクチュアではないか。ここは、NHKにおさめたぼくらの聴取料もフルに活用してほしいのだが。

戦没者を慰めるのに、英国のポピーのような花のシンボルがほしいと思うが、「菊」の御紋章は、思いが重過ぎると感じるのはぼくだけだろうか。

ガーディアン紙の報じるところでは、今回、イラクやアフガニスタンで傷ついた兵士たちのロンドン戦没者記念碑でのパレード参加が許可されなかった。激しい非難の声があがっているという。国は、戦争の悲惨さを国民に見せたくないのだ。

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投稿者 nansai : 16:50

2007年11月12日

十一月十二日(月)

「暴走老人!」という本が出たぞ。

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なぬ、「暴走老人!」とはおだやかでない。
が、省みて心当たりがないわけでもない。
書名の「老人」に!がつけられている。かなりの悪意がみてとれるな。
藤原知美の同名の著書で一躍流行語になりそうな気配。こんな本のバカ売れもいやだなと、抵抗がなくもなかったが、NHK「週刊ブックレビュー」で著者の藤原知美氏の弁をきいて、さっそくではなく、まあ、そのうちに、読んでみようという気にはなった。

「あんた、失礼じゃないか!」
こんな風に、すぐに切れて激高する「新」老人がふえたと、芥川賞作家はクールに指摘しているらしい。

老人も、人口がふえて、多様化してきたと思う。
分別あってしかるべき老人たちがときに不可解な行動で周囲と摩擦を起こす。あるいは暴力的な行動に走る。こうした高齢者を、著者は、ひとまず「新老人」と呼ぶ。

評判の本とあって、テレビとネットでかなり引用解説しているので、読まなくても「新老人」の一員として、著者の切り口は理解できる。

文芸春秋のネットをあけてみると、「書誌ファイル」にこうある。
家族問題を長年テーマにしてきた作家が、「暴走する「新老人」たちの孤独にメスをいれ、品格なき日本人のいまを鮮烈に描き出します。」
最後のおすすめのひとことが痛烈だ。よくいってくれるよ。

「あなたの隣の困った年寄りたちの生態を明らかにする新感覚ノンフィクション・エッセイの誕生です。」

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「だれにむかって、ものを言うちょるんじゃ!」
などと激高すると、術中にはまり生態解剖されてしまいそうだ。一冊買って読まんわけにはいかなくなった。

ここに描いた老人は、オリジナル作だ。
「夕日の詩」の西岸良平描くところの昭和三十年代の理想?のお年寄りに、「暴走老人!」に取り上げられた平成のキレれた新老人を重ね合わせてみた。ま、昔ながらのただの老人に見えるのだが。

投稿者 nansai : 12:01

2007年11月 9日

十一月九日(金)

年賀状アイデア戦争勃発

ことしは、年賀状のアイデア水準がぐんとあがった。ホームページをみても、郵政公社が一流デザイナーを総動員して、デザイン指導啓蒙をはかってきたからだ。民営化の発足とあって、40億枚売り出すそうな。

ちかくのコンビニにいったら、ここでも、もう年賀状戦争が熱い。
賀状つくりのアイデア集が、雑誌売り場にならんでいた。「10分でできる年賀状。」ソフトバンク刊。なんと押すな押すなの1500点の作例がのっていて、たったの500円。CDつきだ。これは安い。「最短3クリックでできる年賀状作成ソフト」も、充実してよくできているぞ。

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やや、これはしたり。先を越されたか。遅れてはならじ。

ぼくの楽しみは、年賀状の干支の動物をアイデア画化することなのだ。何を隠そう、ぼく南斎は、ビルゲーツ先生秘伝のMSペイントでマウスをこちょこちょ操って、絵のようなものを描く、怪しいネズミ使い。天才絵師狩野永徳も、仰天の手軽さなのだ。
とわれて名乗るもおこがましいが、師匠もいないから免許皆伝なんかない。天涯孤独の町の鼠絵師なんである。賀状ごときで、ソフトバンクや郵政公社に負けてはいられない。

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わがマイドキュメントをひっくりかえして、かねて描きためた年賀状の動物たち(ねずみを主体に)に集合をかけて、2008年型アイデアを点検しよう。玉石ごちゃごちゃのなかに傑作が埋もれているやもしれないのに、描いたまま、忘れていることが多いからだ。泰山を鳴動させて、とりあえず、まずネズミ一匹を追い出すことに。

手始めに、探索ダイバーマウス。ウエブの大海原は、情報のジャングルだ。深くもぐって探そう。サーチマウスをよろしく。探しマウスというネーミングもいいか。

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投稿者 nansai : 13:29

2007年11月 8日

十一月八日(木)

我輩は、脚である。ちゃぶ台の。
--小沢党首辞任騒動をめぐって--

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我輩は、ちゃぶ台の、一本の脚である。
どういうわけか、我輩のほうが、ほかの脚よりも、はるかに太い。
ちゃぶ台とは、懐かしい昭和時代、たたみのうえに座って食事したころの折りたたみ食卓。いまは、ふつうの家庭からは消えたが、向田邦子のホームドラマに出てくるやつだ。
頑固親父が、家父長の威厳を保つために怒鳴りながらひっくり返すシーンが、向田ドラマによく出てきた。)
諸般の事情で、我がちゃぶ台は、いろんな板のはりあわせでできている。決して一枚板ではない。
とりあえず、くぎでいいかげんにとめてあるだけだ。

ある日、念願の大きな宴会を開きたいと思った。後押してくれる人もいた。
我輩は考えた。そのためには、からだを寄せて、もっと大きなちゃぶ台といっしょにならねばならない。あわよくば、釘で打ちつけて強引にひとつのちゃぶ台に合体できるかもしれない。

ところが、意外にも、ほかの脚たちが反対するのだ。
親のこころ、子知らずではないか。燕雀なんぞ大鵬のこころざしを知らんやだ。許せん。
一番太い足の我輩は、思わずかっとなって、ちゃぶ台をひっくりかえそうとした。年甲斐もなく。

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もよもと、ちゃぶ台同士の組み合わせ、寄り合わせるのは、我輩の得意だ。いろいろなちゃぶ台を、過去何回も寄せ集めた。
でも、しばらくたつと、なにもかも気に入らなくなって、ひっくりかえした。漱石の「坊ちゃん」だな。
ひっくり返すと、ちゃぶ台は、ばらばらになる。我輩は、それを、何回もくりかえした。

今回も、ひっくりかえしかけた。が、いつになく必死にほかの足たちがとめるので、大人気ないと反省して、思いとどまったしだい。さて。
(ちなみに、このように、どんでん返す行為を、いまも、マンガやドラマでは、「ちゃぶ台返し」というそうな。)

投稿者 nansai : 15:22

2007年11月 2日

十一月一日(木)

詩集「求めない」

「求めない」(加島祥三 小学館)
という詩集が、本屋の山と積まれた新刊書の谷間に、
ちんまりと並んでいる。

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「すると、何かが変わる」と帯にある。
「開いてみて」とちいさな白い本がささやく。
ん、1300円+税だ。

求めない――

すると
心が静かになる。




求めない――

すると
キョロキョロしていた自分が
可笑しくなる



求めない――

すると
恐怖感が消えてゆく

詩だろうか、句だろうか。200ページ足らず、どのページも、白い紙のまんなかに、こんな短い数行がぽつんと印刷されているだけ。この詩には、著者の研究している老子の思想がベースに流れているらしい。

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「求めない」は、数ヶ月前、NHKの朝のニュースで若いアナウンサーたちに紹介されて知った。
八十歳を越え信州に独居している著者は、英米文学の専門家だったが、十年以上前に「老子」に出会い、英語からの自由な翻訳をこころみ、ロングセラーとなったという。この本も、早くも5刷だ。

求めない――
人それぞれの受け取り方があるだろう。それが難しいことは百も承知だ、と詩人は言う。その上での「求めない―」。ときには、もう求めないと自分に言ってみるだけで、いい気分になるよ、とも。

求めない――

すると
恐怖感が消えてゆく

ぼくらは、求めて、求めて、かなわず、あきらめる。また懲りずに、求めて、求めて、かなわず、あきらめる。そんな繰り返しが世の常だろう。
ぼくほどの年になっても、それは続く。あさましいことだ。が、集中力と記憶力がとみにおとろえてきたので、「求める」気持ちが持続しない。天の配剤というべきか。

求めない――
のあとに、自分で考えて、日々、なにかをつぎたしてゆくのがいいのでは、と考えた。かなわぬまでも、やってみる値打ちがありそうだ。
そうすれば、ひとりひとり、自分だけの「求めない」詩集をつくることができる。
求めて、求めて、ないものねだりの、ぼくには難しいことではあるが。 (そうだ。脈絡なく、ぼくは勝手にぼくのカエルの絵をそえることにした。)

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求めない――

すると
求めないでもいられる自分に驚く

先日、ひさしぶりで気の置けない友人たちと、ホームコースでゴルフをした。
もともとの下手にくわえて、足をひきずっているせいもあり、いつものことだが、ボールがあらぬほうに飛んでゆく。キャッチャーフライみたいに真上にもあがるのだ。
二十センチのパターをはずしながらも、ぼくは悠揚せまらず、
「求めない」「求めない」
をとなえて、いや、連呼して、パートナーにいぶかしがられた。
深遠な老子の思想とは、ほど遠い受け止め方である。

投稿者 nansai : 13:50