縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2008年8月28日

京阪新線開通を、何とか、このかいわいの町起しに

ことしも、ここ八軒家かいわいの恒例ベントが企画されるらしい。ご町内の実行委員会の企画メモがまわってきた。あわただしく京阪電車新線開通にあわせて、十月十九日から二十四日まで。

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手づくりのライブコンサート、「たそがれコンサート」を開く。場所は、北大江公園芝生広場。町内の音楽関係の皆さんに声をかけてもらって、これからミュージシャンを集める。

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去年は、トルコ楽器の演奏などインターナショナルなムードで盛り上がった。あいにくの雨模様で、湿気で太鼓の皮がぴんとはれず、目玉演目の和太鼓演奏は、やむなく中止となった。

京阪新線で、町おこしだ。と、八軒家浜かいわい一帯は、気合がはいっているらしい。早めにポスターを間に合わせるようにいわれた。
例によって、町内のだれが責任者かわからない。無責任うやむやは、ずぼらなぼくの望むところ。

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昨年のぼくの作ったポスターは、楽器の描写がいい加減だったからか、町内で悪評さくさくだったらしい。

「あれは、だめでした」
一年たって、マリアンの大将が、ボランティアのぼくを、ぼろくそにこきおろす。

なんの資料もないままに、十五夜お月さんにちなんで、はるばるウサギの楽師たちを呼んできたのだが、えらく評判がわるかったそうな。うさぎくんたち、ごめんな。
もともと幼稚園児のおえかきのようなポスターなので、楽器の精密正確なデッサンをのぞまれてもこまるのだが。

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なにせペイントとマウスで、思いつきをかたちにするスピードポスターだ。
変幻自在のお好み描きのようだが、それでも、でっちあげるのには、気合の充実が必要である。
気を取り直して、北大江公園の滑り台をモチーフにして、イメージスケッチができた。ぼちぼちと思いつきアイデアの破片をならべてみることに。

このふてくされている野良ネコは、ぼくではない。
一年前まで、北大江公園のベンチにうずくまっていた。
夜陰にまぎれてえさをやる奇特なご婦人も見かけたが、ねこはいつしか姿を消したままだ。

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ところで、余計なことだが、コンサートの愛称を「たそコン」とちぢめると、いいひびきだと思うのだが。

投稿者 nansai : 16:11

2008年8月26日

「筋」メダルは、もういらないのでは。

おもしろうて、やがてかなしき、五輪かな。

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お隣りの国の威信をかけた空前の大運動会は、終わった。
どちらさまも、おつかれさん。

オリンピックの観衆は、テレビの前で、感動のドラマを期待している。逆境に耐えて耐えて勝ち抜いて、涙の栄冠をつかむ美談だ。文部科学省提供の大河ドラマだ。

当家は、メス猫を含めて3人の女から「日本の男子はなんや、」と攻撃されている。それに比べて、女子は根性がすわっていると、多勢に無勢で旗色が悪い。
うーん。女子ソフトボールの日本チーム連投連勝はすごかった。正座して、応援した人もいたそうだ。

闘いが終わったあとの表彰式でも、日米両チームが、地面に「2016」と黄色いボールをならべて文字を描いた。ソフトボールの次の次のオリンピック競技種目復活をアピールしたのだ。
あれは、さわやかなアイデアだった。敗者アメリカチームのいさぎよい提案に、惜しみない拍手。

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年俸総額46億円の選手を擁し、ノーメダルに終わった野球が、重量挙げ競技とはしらなかった。
選手村に泊まらずホテル暮らしのセレブ選手たちには、日の丸が、あんなにも重かったのか?
ハングリーな敵の勝ちたい思いに負けたと、宮本主将はくやしげにいう。

記者会見でも、「すべて私の責任。」と言い切り、あたりを睥睨するカリスマ監督を、スポーツ記者たちは、心中を察してか、おそるおそるの質問も腫れ物にさわるようだった。
敗軍の将は、いろいろ事情もあったろうが、「申し訳ない。なにをいっても、いいわけになる。」の一点張りだ。

ぼくたちしろうとは、やれ配人ミス、やれ配球ミスと、うっぷんばらしに、言いたい放題。テレビワイドショーに寄せられた町の敗因アンケートも、結果論だから、いいとこをついているな。
国際競技に、シーズン中のプロ選手をだすのがまちがい。アマチュア選手にチャンスを与えよという意見もあり、説得性があるように思われる。でも、終わったことだ。

あれで、いいのだ?
負けるべくして負けた。そうかなあ。そうかもしれん。

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さて、舞台変わって、次はロンドンだ。
その次の2016には、東京五輪で、メダル量産へ。と、新聞は報じている。本気だろうか。
国家主導の強化策におくれをとったというが、日本が、オリンピックでメダルをとるために、国の税金を湯水?のように使って、選手の強化に努める。
それも限界があると思う。
文部科学省は、平成22年までにメダル獲得率3,5%を実現したいらしい。同省のホームページには、現在、土佐礼子選手の写真がのっている。いたましい。

柔道、マラソン、体操、レスリング、バレーボール、シンクロナイズドスイミング、野球など、往年の日本のお家芸は、世界の隅々から沸き起こる新勢力に太刀打ちできなくなっている。
日本のきわめつくされたトレーニング方法は、新興国の選手に有効なので、教えれば、あっという間に実力を身につけてくる。いい例が、シンクロ、マラソン、野球だ。
マラソンも高速になり、アフリカの国々が躍進してきた。灼熱のコンディションをものともせず、21歳のケニヤ青年がゆうゆう優勝した。かれは、日本の高校でマラソンの基礎指導を受けてきた。
日本男子選手三人のうち、一人は出場を断念し、一人は、かろうじて完走したが最下位だった。

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専門家の意見はどうなんだろう?
オリンピック競技で勝ち抜ける身体能力は、泣いても笑っても、遺伝子でまずきまるのではないか。練習や根性以前に。
記録にはまったくの素人がテレビをぽかんと見ながら、ぼんやり考えた。
ジャマイカの男女各選手は、簡単に世界記録を更新する。水泳競技も、アフリカ各国の黒人選手がプールで練習するようになれば、様相がかわるだろう。

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人種別に、身体のサイズ差、筋肉の量と質が、まず優先する。それに、体調管理と正しいトレーニングがともなえば、確率高く、世界各地から優れた選手が泉のごとく輩出するだろう。
昔に比べて体格がよくなったとはいえ、わがヤマト民族はどうみても不利である。

いいことかどうかはべつとして、世界水準の競技に勝つために、国境、国籍を超えて、レアメタルのように身体能力のすぐれた人材が移動している。スポーツ資源の自由化といえよう。
サッカーのナショナルチームでも、旧植民地出身、移民、帰化、いろんなかたちで身体能力にすぐれた有能な素材を、各国こぞって集めようとしている。
大リーグ、大相撲、サッカー、卓球などでは、人種、国籍、国境を越えた人材集めは、いまや常識となった。

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身長の差、すらりと伸びた足の長さなど、人種間の先天的サイズや能力差も、容姿が採点に響く種目では、いかんともしがたい。

残念だが、それを無視して、国民の体力が競技に向いていない国家が、しゃにむに、メダルの数を競うのは、むなしいことだ。豊富な資金にものいわせても、根性と鍛錬だけで、メダル獲得競争に挑戦するには限界があるのでは。

北京オリンピックをみると、素人目にも、スポーツの世界でも、時代は変わったように見える。
日本人のような小さな選手は、努力だけで、これまでのように、時には、勝てるのだろうか。
筋力の競争では、メダルにこだわらず、負けても仕方がないと割り切って無理をさせない。

「身の丈」サイズで戦わざるを得ない。さほど筋力に頼らなくてもよいスキマ種目は、フェンシングやカーリングのほかにも、まだあるのではないか。ないかもしれない。
「身の丈」の筋力で勝てる種目で勝負しようではないか。
筋力では劣っても、長寿耐久生存競争ならば、日本が男女ともに金メダルだ。カンケイないな。

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日の丸が重いのなら、クーベルタン男爵のオリンピック宣言の原則にもどればいい。参加することに意義があるのだという。

投稿者 nansai : 17:15

2008年8月22日

大川の川面をオニヤンマの大群が飛んでいた頃

当たり前の風景がなつかしく思える。自分は、体験していないのに。
天満橋の下を流れる大川(昔は、こちらを淀川といった)を、オニヤンマの大群が飛翔していた。といっても、70年前、戦前のはなしだ。
ご近所のよしみで、昭和の初期から、代々、石町(こくまち)にお住まいの萩原理一さんに、当時の八軒家かいわいのお話をうかがった。
萩原さんは、昭和4年のお生まれである。

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昭和の始めごろ、八軒家浜は、京阪電車の開通でお役ごめんとなった船着場は取り払われて、電信柱の置き場になっていた。
ちょうど今頃の季節、夕方になるとオニヤンマが編隊をくんで飛び回っていたそうだ。オニヤンマは、身長10センチもの巨大とんぼだ。今ではめったにお目にかかれない。
萩原少年たち悪がきは、50センチくらいの糸の両端に小石など錘をつけて大空たかく投げ上げる。群れをなして飛ぶオニヤンマを待ち構えて、からめとるのが、あそびだった。「とんぼつり」といったらしい。
小石をムシとかんちがいしてヤンマが飛びつき、糸にからまり落ちてくる仕組みだ。各地でいろいろな「とんぼつり」法があったようだ。

戦争が近づいていた。
とんぼ飛ぶ大川も、かつての京都との船での往来はなく、当時日本最大の兵器製造工廠、片町の大阪造兵廠へ物資や武器を運び入れ運び出す運搬船が行き来していたという。

まもなく、ここら一円は昭和二十年六月の大阪大空襲で、見渡すかぎり、焼け野が原となった。
京町通りから北大江公園に通じるこの石段は、焼け残った。いまも昔の姿をとどめている。

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戦後、石段を登ったところの焼け跡を利用して、北大江公園が、石町通りをさえぎるかたちで、つくられた。防災目的だったのだろうか。

戦前のせまい島町通りは、トラックの少ない時代で、荷馬車の往来がはげしく、馬の糞があちこちに散乱していたそうだ。

戦前ここらあたりは、軍関係、株屋さんなどの大邸宅が多かった。
石段の横のしゃれたピロティ形式の洋館が、萩原さんの生家だったが、大阪大空襲で焼夷弾のケースの直撃をくらった。焼夷弾は、今でいうクラスター爆弾でケースのなかに子弾として48発のM69焼夷弾を内臓し、これが上空700mで飛び散る構造だった。

萩原さんによれば、生家のすぐ裏に、大きなロシア正教の教会が建っていたが、そこも空襲で焼けたとのこと。

へえ、あんな場所に教会があったとは、初耳だ。
さっそく、ネットで調べてみたら、1910年、明治43年7月に、木造ビザンチン式の聖堂が建立されたとある。
日露戦争のロシア人戦没者を弔うために寄付により建てられ、「大阪生神女庇護聖堂」と名づけられたという。昭和二十年灰燼に帰したが再建はならなかった。

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萩原さんの話では、京都の押小路通にも、そっくり同じ形式の教会が残されていて、疎開取り壊しを免れ、有形文化財に指定されているらしい。この絵はネットの写真を見て描いたもの。

このようなエキゾチックな教会が、マンションやビルの立ち並ぶ北大江公園のそばに建っていたのを、町内でも知る人は少ないのではないか。


投稿者 nansai : 11:23

2008年8月15日

ああ、やっぱり。これでは、310万人の戦没者は浮かばれない。

オリンピック関連の記事があふれかえるなか、終戦直前の東条元首相の直筆メモが新聞にひっそりと公開された。国立公文書館に保存されていたそうだ。

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元首相は、A級戦犯として処刑され、靖国神社に祀られている。
さまざまな政治的配慮から、国内法で、戦争責任を問われることはなかった。
東条メモは、大日本帝国の悲運を物語っている。文語体で書かれているので、今の日本語に直して読んでみた。
「新型爆弾におびえ、ソ連の参戦に腰をぬかし、かんたんに手を上げてしまった国政指導者と国民にあきれた。
こんな人たちを頼りにして、開戦し戦争指導にあたったのは、責任者として、天皇と国民に対して申し訳ない。」

昭和20年8月、元首相は、重臣懇談会のあと、ポツダム宣言受諾をきかされて、メモに太平洋戦争開戦責任者の本音を縷縷つづっている。かれは、国体を護持するためにならぬと、日本軍の完全武装解除を懸念していたのだ。

あの時代に、日本国民(当時少年だったぼくも)は、いったい、どのような考え方の指導者たちをいただいていたか、よくわかる。かれらは、冷静に判断すべき情報を持たず、耳にさからう情報を得ようとしていなかったのだ。

「戦いは、常に最後の一瞬において決定するのが常則である。
帝国としてもてる力を十二分に発揮せず、敵の宣伝戦略に屈しようとしている。」
この期におよんで、まだまだやれるとのべている。
すでにサイパン、沖縄を奪われ、連日激しい空襲に遭い、国中焦土と化しているのにだ。戦力尽き、犠牲者はすでに310万人を数え、原爆を二発投下され、ソ連の参戦を許しながらもだ。

「無条件降伏とはいえ、皇位確保、国体護持は当然の条件で、これを敵側が否定するなら、一億一人となっても敢然戦うのは当然だ。
国体護持は、軍備維持なくしては、空文だ。全面武装解除などとんでもない。やすきにつきたがる国民は、軍部をのろうのではないか。」
とも。

時代とはいえ、人の命をどう考えていたのか。かれの制定した日本軍のマニュアル「戦陣訓」は、生きて虜囚の辱めを受けてはいけないと、兵士が敵の捕虜になることを禁じた。ジュネーブ協定の無視である。
「皇位確保」という大義のため、徹底抗戦を政府が国民に強いれば、どうなるか。第二のサイパン、沖縄のような市民をまきこんだ壮絶なゲリラ戦になり、民衆に甚大な犠牲が生じることに、戦争指導者としてまったく思いをいたしていない。

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こんど公開された元首相の手記について、新聞各紙も、いまさらながら、かれの指導者としての狭い視野と甘い認識を指摘している。
かみそりといわれた超エリート官僚だった東条大将。昭和天皇の信任はあつく、かれの失脚後も勅語をもって労をねぎらっている。
しかし、その股肱の臣は、精神力のみを頼み、きびしいデータと現実に眼をそむけた。

首相を拝命した東条大将は、頼りにしていた同盟国ドイツの敗色濃厚という情報をも無視し視野狭窄のまま、かれなりの消去法で、選択肢をせばめていった。昭和16年ついに大軍を動員し、転げ落ちるように、あの戦争へ向かって破滅の舵をきった。
この絵は、NHKが放送している「証言 兵士たちの戦争」の集合写真のイメージだ。ほとんどが生還していない。

昭和16年、かれは戦争回避の最後条件としてアメリカから突きつけられた華北と仏印からの軍隊撤退を、陸軍の立場から断固拒否した。満州は黙認されたのにである。これにより外交交渉の余地なく、成算なき太平洋戦争への突入の直接の引き金は、ここにあった。

日本は、なぜ大陸に出兵したか。昭和6年からの大陸進出は、貧困にあえぐ日本の農業政策のゆがんだ方針でもあった。大陸での利権を保護すると称して、日本軍は泥沼の戦いへ進軍を余儀なくされた。

ぼくが生まれた年から15年、激変する世界の潮流を見誤った日本政府は、数々の選択肢のほとんどを、誤って行動した。東条大将ひとりの責任ではないにしても。
過ちの代償は、たかくついた。きょう日本武道館で弔われる310万人の戦没者は、この間の大いなる失政の犠牲なのである。


日本人は忘れっぽい。あの戦争はなんだったのかをめぐって、喧々囂々議論が沸騰し、数多くの昭和史が出版されている。
しかし、つぎつぎに極秘資料が公開され、注意深く読み解けば、隠されていた真実があきらかになりつつある。
先見の明にめぐまれたクールで現実的な指導者が選べなかった国家は、あのような悲惨な運命にあまんじねばならない。それは平成の今も、変わらないのだが。

投稿者 nansai : 13:09

2008年8月 5日

昭和二十年の日本になにが起きたか?

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八月になると、昭和二十年、敗戦の年(終戦ではない)を思い出す。暑い夏だった。
旧制中学二年生のぼくは、本土決戦に備えて関門海峡の海岸で、陣地といえばきこえはいいが、横穴壕を掘っていた。壕内にともされていたアセチレン灯のくさいにおいを思いだす。

ドキュメンタリー「ヒロシマナガサキ」(スティーブン・岡崎監督)の取材陣が、東京の街頭で、若者たちに、昭和二十年の日本になにが起きたかと聞いてまわった。さあと、顔を見合わせるだけで誰も答えられなかった。地震?と聞いた子もいた。戦争が起きていたことも、核爆弾が投下されたことも、教えられていなかったのだ。

63年前、満身創痍の大日本帝国は、二発の原子爆弾の投下でとどめをさされた。
この年は、日本の歴史始まって以来、日本人の生命が最も多く失われた年だ。兵士だけでなく、市民も巻き込んで、その数、おそらく死者200万人以上。たった一年たらずのあいだにである。(ちなみに、イラク戦線の米軍の七月の戦死者は7名。)

この年、200万人の生命が、日本の戦争指導者が、無条件降伏に逡巡したために失われた。
あの悲惨な戦争の実相を、中国、ビルマ、フィリピン、ニューギニア、太平洋の島々で、からくも生き残った兵士たちに取材した貴重なテレビ番組がある。NHKのドキュメンタリー証言記録「兵士たちの戦争」だ。ことしも、8月にまとめて放送される。

かろうじて死を免れ、生き残った兵士たちは、みな90歳近くで、各地方の精鋭師団に所属していた。
若いひ孫のようなNHK地方局女性記者の取材に応じ、戦闘の悲惨な地獄絵を語る際には、日本人独特の不可解な微笑みをうかべながらのオーラルヒストリーだ。

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戦争をめぐるあらゆる議論は、このような貴重な証言を、聞いてからはじめるべきだろう。同時代に生き、学徒動員されたぼくだが、戦争の実相にについては、まったく、無知であることを思い知らされた。
敗け戦のいくさばなしは、あまりに悲惨で語られることはない。生き残った元兵士たちも、沈黙したまま墓場へもってゆくつもりが、ひ孫のような記者の取材を受け、ようやく重い口を開いた。稀有な資料となった。

おびただしい数の昭和史が、書店に並んでいるが、このフィルムに記録された兵士たち(市民の声は入っていない)の証言はあまりに重い。後世に語り継がれるだろう。この検定の必要のない第一級の史実こそ、まず歴代の首相も文部科学相も、向き合うべき生きた教科書なのだ。


投稿者 nansai : 14:47