縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2008年9月 9日

1500年前の「難波津」は、このちかくに?

このところ、浅学菲才の身をかえりみず、にわか郷土史家に変身している。「大水都史を編み後世に伝える会」)のサイト「八軒家かいわいマガジン」のたちあげに協力している。むかしの資料がないから絵が描けないのが残念だが、こんな具合に、八軒家船着場かいわいの史実資料をもとめて、犬のようにかぎまわっている。

難波津に咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと咲くやこの花

「古今集仮名序」に収録されているこの歌の「難波津」が、ついすぐそこの高麗橋の近くであるという学説を知って、にわか郷土史家のぼくはおどろいた。

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ぼくは、この写真を難波橋の上から、西へ向かって撮影した。
タイムマシーンに乗れば、当時は、すぐそこまで海がせまっていたのだろう。ここらは上町台地の突端部である。大阪湾と河内湖をへだてていた上町台地は、天橋立のような細長い地形だった。

東のほうは、縄文時代、生駒山のふもとまで海岸だったそうだ。河内湾という。今の大阪平野南部は、海の底だった。
2世紀から3世紀にかけて、入り口が土砂で埋まり、湾が湖になった。河内湖である。草香江とも呼ばれた。瀬戸内海を東征してきた神武天皇の戦闘記録にも登場する。

左のこの写真は、天神橋から、現在の大川を、河内湖のあった東へ向かって撮影した。

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タイムマシーンに乗ると、1500年前は、ここから東は、生駒山まで、ただ一面の湖水と湿地が見えてくる。
淀川、大和川がこの湖に注ぎ込み、長雨や豪雨のたびに水害をもたらしたので、日本書紀によれば、5世紀には砂州を東西に掘りぬく「難波堀江」が開削された。
教科書にものっているが、なんと現在の大川天満橋あたりらしい。
では、「難波堀江」はすぐそこではないか。不勉強なぼくは、ミナミの堀江とかんちがいしていた。
洪水を防ぐための堀江は、湖と海をつなぐ地形を生かした港、難波津を生んだ。

難波津は、2世紀から3世紀にかけて、古墳時代の物流の一大拠点だったらしい。河内湖の一番奥に草香津という港湾設備があり、5世紀に難波堀江を開鑿して、瀬戸内海からそこへ直行できるようにした。
難波津は、途中に作られた港湾設備だったらしい。文献によれば、難波館(なにわのむろつみ)と呼ばれる商館があったと伝えられるが、遺構は発見されていない。難波津の東、上町台地の先端からは、16棟の倉庫群が発掘された。

難波津という港がどこにあったか、資料がなく長年不明だった。
冒頭の「難波津のさくやこの花」という歌は、「古今和歌集 仮名序」に見える。「この花」は、梅だったといわれている。
仁徳天皇が即位したとき、百済の王仁博士が梅の花にこの歌を添えて奉ったとか。
さまざまな万葉仮名があてられた木簡が出土している。当時の手習いの手本とみられている。

さて、その難波津は、どこだろう?
今は見る影もない高麗橋のちかくという説が有力という。
近年諸説が整理され、三津寺町付近(千田説)と、高麗橋付近(日下説)にしぼられてきた。ぼくはまったくの門外漢だが、近年では、いろんな資料から高麗橋説に傾いてきたと聞き、当サイトとしては、高麗橋付近が難波津というロマンを支持させていただくことにした。くわしい論拠は、日下教授の論文を読んでみなくては。

投稿者 nansai : 2008年9月 9日 13:45