縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2010年8月10日

八月十日 「日本で一番長い夏。」がきた。

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八月のあの日の空の青さかな

あの日から、ことしで、もう65年になる。
敗戦に終わったあの戦争は、聖戦と言われていた。
中近東で続いている紛争と同じような大義を、大日本帝国もふりかざしていたのだ。大義は,「東洋平和」から、敗戦直前には「国体護持」へと収れんした。

今思うことは、65年前、もし陸軍におしきられ「国体護持」のために、無条件降伏をせまるポツダム宣言を断固拒否していたら、なにが起きていただろうか。
一億玉砕を叫び、国をあげて本土で敵を迎え撃っていたら、ぼくら国民はどうなっていたか。

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敗色濃い戦局は利あらず、すでに300万人の生命がうしなわれていたのに、頼みの連合艦隊は壊滅していたのに、ぼくらはなにも知らされていなかった。
水際で抵抗して時を稼ぎ、大艦巨砲の艦隊決戦に持ち込むという現実離れした戦略だったと、後年資料で知った。
敗戦の二ヶ月前、血迷った政府は、法改正して、15歳以上の男子は、国民義勇戦闘隊に招集することになっていた。2800万人が根こそぎ動員予定だった。
新聞は、戦意高揚の道具でしかなく、ジャーナリズムであることを放棄し、全く真実を報道しなかったからだ。(ラジオは国営だった。)

制海権制空権を奪われ、圧倒的な火力の差だ。水際での抵抗はできない。本土上陸されれば、一方的に殲滅された沖縄戦以上の壊滅的な死傷者が出る。
あとは、最悪のばあい、イラク、アフガンニスタンのような泥沼のゲリラ戦になっただろうということだ。
イラクでは、きょうも百人以上のテロ爆弾の犠牲者が出ている。抜きがたい宗派間の憎しみ対立によるといわれる。
日本も、戊辰戦争のように、神州不滅を信じる国体護持派と解放民主勢力派とに二分されて同胞相食む情勢も否定出来ない。
ただ制海権を失い孤立無縁の日本は、武器を入手するルートを完全に絶たれていたから、民衆を巻き込んでの徹底抗戦も、軍の兵器弾薬が尽きるまでしか戦えなかっただろう。

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沖縄戦では、女子学生も手榴弾を渡された。攻撃のためではなく自決用にだ。
当時まだ一般市民は、武器を持たされず訓練も受けていなかった。武器が全く足りないから、女性にまで竹槍の訓練が行われ、「ひとり一殺」と叫ばれた。
戦争指導者は、日本民族は、物量で負けても,精神で勝てるという。正気のさたではない。

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一般市民と兵士の見分けのつかないゲリラ戦は、歴史の示すところ、どの戦争でも大量虐殺、残虐行為を生む。戦闘員と非戦闘員の区別なく、報復が報復を呼ぶのだ。
本土決戦と言っても、中学生のぼくらが材木製の陣地構築の手伝いをしておっつくわけもなく、日本の長い海岸線を守るのは不可能だった。現実には全く無防備で、報告を聞いた天皇が激怒したと伝わっている。

オペレーション「ダウンフォール。」は、破滅を意味する。昭和二十年秋、満を持した連合軍の日本本土上陸の作戦名だ。
Xデーは、十一月一日。まず、九州へ。翌春に関東平野へ上陸と計画された。(ぼくらは、最近知ることになるのだが。作戦の全貌は、ウイキペディアにも詳しく記載されている。)
連合国側は膨大な犠牲を覚悟していた。見込まれる損害は45万人、うち死者行行方不明10万人と予測された。
したがって、連合軍は、無慈悲にも原爆投下をためらわず計画していた。
九州上陸にあたって、少なくとも7発の原爆を、作戦開始前に、守備部隊に投下する必要があるとした。ヒロシマ、ナガサキ級の原爆を7発もだ。身の毛のよだつ作戦であった。

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ぼくの戦争末期の体験などは、とるにたらぬちょろいものだったが、暑い夏のことで、下痢になやまされ体力のない13歳の少年にはこたえた。

昭和二十年春、敗色濃い戦況下、本土決戦にそなえて、ぼくら旧制中学二年生は陣地構築に動員された。年老いた兵隊といっしょに、機関銃座の横穴を掘るのだ。
敵機に發見されぬようシャツを紺色に染めた。シャツの縫い目にひしめいている白いしらみを見つけるには役立った。
本州西端の海岸沿いの崩れやすい丘に、アリの巣のように横穴を掘り、壕と壕とをつなぐのだ。夜店でおなじみのアセチレンガスで暗い壕内を照らした。コンクリートなんかないから、杉かなにかの太い丸太を縦に並べて、掩蔽するしくみだ。堅牢な岩盤にきずかれた陣地ではなく、急造のログハウスみたいなつくりだから、艦砲射撃一発で山ごと吹っ飛びそうな陣地だった。
焼け残った丘の上の小学校に寝泊まりして、毎朝徒歩で工事現場?に向かった。すでに、同盟国ドイツ敗れ、サイパンが落ち、戦況が不利なことは知っていたが、ラジオもない、新聞もない。暑いし、下痢が続いてやせこけてふらふらだった。
海軍工廠に動員されていた一年上の上級生は、終戦前日の空襲で命を落とした、とあとで知らされた。

8月15日。その日の午後には、穴掘り作業を中止して引き上げた。見上げた空の青さが、眼に焼き付いている。
当日、天皇の玉音放送も聞いていないし、原子爆弾投下は、新型爆弾といいかえられ、引率教師からくわしい説明も注意もなかったように思う。焼け跡の小学校に寝泊りしていた中学二年生には、なにも知らされていなかった。
なんだかよくわからないうちに、家に帰らされた。灯火管制がおわり電灯がついたのがうれしかった。「終戦」とは、当初、引き分けのことだろうかとも考えた。過酷極まる無条件降伏だったのに。

そして、占領下、知らないままに戦後は過ぎていった。
少年だったぼくは、まがりなりにも戦いの渦中にいたのだが、直接見聞きしたことは知れている。なにもわかってはいなかった。
戦前戦中の大新聞の戦意発揚のプロパガンダぶりには慄然とする。国民が信じたのは、うそばかりだった。
この頃になり、日米からおびただしい資料が公開されて、初めて、戦いの全貌がおぼろげながらみえてきた。


教育のパラダィムシフトで、自分の国の戦いの歴史が総括されなかったのは、不自然である。教科書にどんなふうにのっているのか。入学試験にも出題されない。
打ちひしがれた関係者はみな口を閉じ、亡くなっていった。あまりに悲惨な戦争体験を語り始めたのは、あまり、むかしのことではない。

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「日本で一番長い夏。」NHKは、昭和38年文藝春秋企画の「座談、日本で一番長い夏」を映像ドラマ化し、先週放送した。ここ数年戦争証言ドキュメンタリー番組に力を入れ始めた。当時なぜあのような結末になったのか、終戦にかかわった人たちがまだ存命していての証言を再現していた。いまのぼくは、かなり当時の事情の記録に目を通していて、当事存命の関係者たちの語る内容は、奥歯にものがはさまったようで、まだ歯がゆいと思った。
いままた、戦争を知らない人たちによる、あの戦争を正当化する動きがある。
ぼくは、戦争に正義も大義もないと思う。

結局310万人の命が奪われた。おびただしい数の
戦地におもむいた270万人の軍人の70%は、補給を絶たれた餓死だった。東京大空襲の犠牲者は一晩で10万人だった。
神戸の震災でなくなった6000人のひとたちを、今の日本人はどれほど哀悼したか。

戦争に倒れた犠牲者310万人。
この想像を絶するおびただしい人命と引換えに、大日本帝国は、なにを得ようとしたのか。
本土決戦を主張して譲らなかった陸軍は、「国体の護持」こそ究極の目的とし、ポツダム宣言の無条件受諾をこばんだ。キーワードは、英語に翻訳不能のKOKUTAIであった。
あげくのはて、窮した政府は、あいまいな表現でポツダム宣言を黙殺すると発表した。その「MOKUSATU」が、英語のIGNORE(無視)と翻訳されてしまい、トルーマン大統領の原爆投下命令につながったと伝えられている。それよりさきに、投下は決定済みだったらしいのだが。

昭和はいい時代だった、懐かしいと、テレビは,美化された回顧番組を流す。
戦いに敗れる昭和二十年までの日本が、どんな国だったのか。
日本全国の小学校の奉安殿には、天皇皇后の写真がおさめられ、こどもたちはその前で頭を下げた。白馬に乗った大元帥陛下を知る由もない。軍艦の舳先にも38式歩兵銃にも,菊の御紋章をつけて戦った国だ。
なぜ310万人もの犠牲者が出たのか。それなりの理由があるはずだ。いったい、どんな過ちを犯したのか。いっさいが不問に付されている。原爆記念碑には、「安らかに眠ってください。あやまちはくりかえしませんから。」とある。アメリカと戦争をしたことさえも知らない子もいる。
ふつうのひとにとっては、歴史は風化して当たり前なのだ。だが、それでいいのか。

投稿者 nansai : 2010年8月10日 11:25