縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2011年5月 2日

四月二十九日 核の花と水仙の花

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ニューヨーカー誌3月28日号の表紙は「暗い春」だった。
外国の目からみた日本の春。暗闇をバックに核マークの花が咲いている図だ。日本人のぼくにはとても描けないアイデアである。
東北から遠く離れた、ここ大阪の花見も、天満橋河畔の造幣局の「通り抜け」を最後に、あっけなく終わった。名物の夜桜は、照明の自粛で、今年は取りやめとなった。気分が萎縮してしまった。
年々歳々、花相似たり、年々歳々人同じからず。花に罪はないのだが。
今頃、桜前線は北上して弘前あたりだろうか。被害三重苦の始末がつくのは、思いの外、はるか遠いさきの話らしい。
いま前途に希望のみえない被災者の人々が、せつにのぞんでいるのは、 すべてを3月十一日のあの日にかえしてほしい、ということだろう。
そう望まれると、ことばもない。時計の針を逆回しして、それが可能なタイムマシーンは、何十兆円かけてもつくれないのがくやしい。
放射能を遮る防護服も作業ロボットも、日本の技術力の想定外だった。

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過日天皇ご夫妻が宮城県の避難所を見舞われた際に、一人の奥さんが、美智子皇后に黄色い水仙の小さな花束を差し出した。
その奥さんの家は、津波でまるごと流され、土台しか残っていない。ある日帰宅してみると、自宅の庭の瓦礫のそばに、震災前に埋めておいた球根から黄色い水仙が芽を出しているではないか。いのちは強いものだ。奥さんは、早速小さな花束をつくり、私たちも負けず
にがんばりますからといって避難所で皇后に手渡した場面をテレビカメラがとらえていた。
「握手していただきました。白くて暖かい手でした。」
喜ばれた皇后は帰りの飛行機から降りるタラップでもしっかり手に抱いておられた、とNHKテレビが報じていた。

この黄色い水仙のエピソードは、象徴的だ。
流された家の敷地の黒いヘドロの土のなかから、植えておいた球根から水仙が芽を吹き、けなげにも花を咲かせたのだ。津波に耐えた復活のシンボルにもなるだろう。水仙の花の絵は、ぼくには難しかったが描いてみた。

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未曾有の国難にあたり、これからどうしたらいいか。東北を、日本を。だれもが意見を述べるだろう。
フィナンシャル・タイムズが日本の公共工事を皮肉ったように、従来ならば、こんな時、日本はセメントと鉄と水でしのいできたのだが、今度はそうはいくまい。
有識者、政治家たちが、百家争鳴めいめい勝手な復興計画案を並べ始めるだろう。早くも百家争鳴の即興アイデアが、週刊誌各紙にわんさとのっている。政府が委嘱した二十の委員会にも有名人が目白押しだ。綺羅星のごとき委員会のメンバーも、坂本竜馬、高杉晋作クラスの若手の新進気鋭のサムライがすくなすぎるのではないだろうかと気になる。

はたして、正しい最適案は生まれるのだろうか。解は無数にあるから、優先順位はつけにくい。収拾がつかなくなるのは必定。

この国難にあたって、日本を、東北を、これからどうするか。必要なカネは、五十兆円以上といわれる。
国難となると、いつの時代も、愛国者があふれる。だが、高齢者に、なにができるか。こんご持続可能な納税しかないだろう。それだからこそ、血税の無駄遣いを厳しく監視したいのだ。

とりあえずの復旧と、百年後を見据えた、東北という「くにのかたち」を分けて考える。

知恵とかなりの時間が必要だが、若い日本人の底力は、東北を浮上させるだろう。選択と集中、よろしきを得ればだ。
しかし、いまどん底の境遇にある高齢者たちは、経済的にも燃え尽きている。不運な高齢者たちが、せめて平穏に余生が全うできるように、適切な医療が最低限受けられる環境と設備を整えるための緊急体制が必要だ。
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さて、東北の具体的な将来像。
納税以外に、ぼくに口をはさむ権利はない。だが、長く生きてきて、ものごとを大雑把にしか考えられないぼくは、しみじみ思う。
なにごとも、無理はいかん。ほどほど身の丈にしておかんと。えらい目にあうで。

神話を信じて日本人はひどい目にあった。神州不滅の不敗神話とか、原発安全神話とか、シミュレーションの足りない思い込みを信じては、あかん。アメリカに宣戦布告するとか。日本列島改造論とか、水面下60メートルの防潮堤なら、大津波が防げるとか。
無理は、あかんで。先を見通さずに、元気のよいように見せかける無責任な役人や政治家にだまされるな。

戦前の昭和に生まれ国難に翻弄されたぼくが国民としていっておきたいのは、人知のおよばぬ二つの原理に逆らうな、ということだ。
それは、自然の摂理と市場原理である。

日本列島東岸沖のプレートの境目の震源域は、日本海溝の海底に二億年前から現存していたという。その事実を無視して設計に織り込まなかった建設関係者は、不遜にも自然をなめていたのだろうか。
地球にしてみれば、地震も津波も、げっぷか、しゃっくりの発作みたいなものだ。千年か百年か十年か、定期的に?大小の地震津波を発生させ、くりかえし日本列島を襲ってきた。

素人考えでも、原子力は制御できるかもしれないが、津波を引き起こす地殻変動には抗しきれるはずがない。
原発や防潮堤のみならず、今後建設する大小の構築物は、厳密にハザードマップを作り直し精査して、活断層を避け、耐震、免震、制震構造をほどこさねばならない。こうして、見直された基準値に基づいて、最新の技術を開発して施工すると、この地域での構造物は恐ろしく高いものにつくだろう。
グローバルな競争にさらされ利益を追求せざるを得ない企業は、すばやく対応するだろう。しかし、「とーちゃん日の丸」の公共事業は、そのとき償却にいたるコストをどう織り込めるか。納税者は、監視しなければならない。

日本海溝8キロ海底の震源域は、これから何億年も人間のいとなみと関係なく存在し続けるのだろう。
このような世界有数の地震頻発地帯にあえて建設するとあっては、建築構造物は、これまで以上に、採算性が問われるのは必至だ。従来のような採算性の「作文」は許されない。採算は無視できない。
誘致に安易に乗るかたちの過去の公共事業は、政治指導で無理な目標をたてて地元をうるおしてきた。選挙区の票とおこぼれの利権のためである。

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納税者のひとりとして、ぼくは、最近待望論の高まっている小沢一郎的な環境が整うと、悪夢のような田中角栄流の列島改造待望論のもとにお涙ちょうだいばらまき工事がつぎつぎに大手を振って企画されるのが心配である。復興の美名のもとに、二度と大津波に流されない、超巨大防波堤などだ。万里の長城や,戦艦大和はもうたくさんだ。
納税者のぼくの立場からいえば、破綻に瀕している財政から、税金や国債で吸い上げたカネをそんな風に使ってほしくない。
ある専門家は、津波のエネルギーに抵抗できる人工の構築物はない
と言いきっているのだ。無理はあかん。無理は負けるで。

つぎに人口が減り、高齢者が増えるという冷厳な現実が日本にせまってくる。好むと好まざるにかかわらず。人口の80%が都市に集まると予測されている。いくら勢いよくグランドデザインとか、ビジョンを作文してうたいあげても、それが現実を踏まえなければ、冷厳なグローバルな市場原理の流れには勝てないような気がする。
残念ながら、東北は、その少子高齢化社会の未来のサンプルにほかならない。2010年に一一六八万人が、2050年には七二二万人に減るという政府予測だ。その半分は、高齢者だ。
長い年月を経ると、いかに故郷が恋しかろうと、市場原理のままに、人々は、移動する。集落も、工場も。なにも、日本に限ったことではない。
若いひとが、ふるさとを出てゆく。残るのは老人たちばかり。先祖
は、傾斜のきつい山ぎわの田んぼを段々に耕したが、機械のはいらないまは、耕作放棄地にせざるを得ない。

地元に、若い人のやりたい仕事がなく、食えないからだ。
三陸海岸の水産物か工場は、研修生という名の中国人労働者がいなければ操業できない。茨城県のイチゴハウスも、収穫する中国人労働者が帰国したため、ハウス内で枯れてしまった。
労働力不足の東北は、五十年後、百年後にはどうなるだろう。このまま、研修生という名の低賃金の外国人労働力によって、支えられる「特区」地域となるほかないのだろうか。

それでは、市場原理にさからわない東北再生をどのように計画するか。地域のだけでなく、日本の叡智が試されるだろう。
政治家がグランドプランをどれほど提示しようとも、口当たりの良い元気のいいアイデアは、よく吟味せねばならぬ。
日本列島改造論を思い起こしてほしい。バブル後の町おこし、村おこしは、全数絶滅した。死屍累々、また夕張のような事例が、選挙の公約で、また出現しないとも限らない。膨大な負債を残し、子や孫に引き継がれる。あやまちは、忘れられ繰り返される。リアス海岸の津波対策のように。

投稿者 nansai : 12:14