縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2012年11月13日

十一月十三日 明治の大阪の街では、人力車が最先端の乗り物だった。排ガスゼロ。燃費ゼロだったが。

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人力車には乗ったことがない。こどものころ、お医者さんが往診で乗っていたかすかな記憶がある。

昔の大阪で人力車といえば、「ベンゲットの他あやん」こと、老いた佐渡島他吉が、あとから追いかける幼い孫娘を気遣いながら、梶棒を押し大阪の街を走る、あの場面が浮かぶ。舞台は、人力車がすでに衰退していた昭和15年ごろ戦時中の大阪だ。織田作之助原作「わが町」を森繁久彌をはじめ幾多の名優が、映画に、舞台に、演じた。

明治の始め、掘割の街を人力車と巡航船が往来していたと「大阪市営交通90年のあゆみ」にある。
当時人力車は、文明の利器、時代の先端をゆく交通手段で、日露戦争前の明治35年ごろまで、人々の足になった。
駕籠にかわり西洋馬車をヒントにして発明されたといわれる。
人力車は、木製の車輪に鉄板を巻き、軒を接する狭い街路を疾走した。『ガラガラ』と呼ばれて、石ころ混じりの道を走る。さぞすごい音だったろう。
明治2年に東京に出現、半年後には大阪にお目見えした。明治4年には,高麗橋一丁目に開業した。
鉄道は次々に開通したが、市内を走る大阪市民の日常の足ではなかった。


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人力車は、なぜそれほどの人気を得たか。
それまでの駕籠にくらべて早くて乗り心地がいいと大評判となったそうだ。街の交通の要所や花柳街には人力車の店舗が置かれるようになった。
明治28年には、大阪府下で一万台を突破。最盛期には2万台に達したという。
当時の錦絵をみると、梅田停車場の前はずらりと客待ちの人力車が勢ぞろいしている。今のタクシー乗り場のようだ。


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雇用にも寄与した。
からだが丈夫で自分の足と車さえあれば、すぐに商売になり、燃料もえさ代も運転免許も必要ないとあって、曳き手の車夫も急激に増加した。
来日したアインシュタインは、人力車を用意されたが、非人道的労働なので自分は乗れない、と断ったというエピソードがある。事実だろうか。


日清戦争後の不況のどん底にあった大阪は、明治36年に第5回内国勧業博覧会を開催。後年の万博のように、なんと530万人を誘致した。
大成功だったが、未曾有の観衆をさばかねばならない交通事情は、新しい時代へ向かう。


チャンス到来とばかり、人力車は、せっかく公認を受け、集められた2千人の車夫はいっせいに赤い帽子をかぶったのに、開幕1週間後に、白い船体の巡航船が客を満載して走り出した。
巡航船は、定員30人乗り。石油原動機の音から、ぽんぽん船と呼ばれ、大阪の格子のような堀や川を利用して人気を得た。
通天閣の下あたりにつくと、目の前はもう博覧会場という便利さ。全区間乗っても二銭。乗り心地よく、料金は人力車の半分以下だから、瞬く間に人力車の客を奪った。客を奪われた車夫は怒り、暴動となった。
以降、人力車は急劇に落ち込む。

しかし、そのぽんぽん船も、明治42年から市電がデビューして、開業十年で姿を消した。

まもなく、市バス、地下鉄が大阪の足になるのだが、市場原理とはいえ、なんともすさまじい大阪の交通近代化だった。牛に引かれて地下鉄の車両がはこばれてゆく写真が「大阪市営交通90年のあゆみ」にのせられている。

投稿者 nansai : 2012年11月13日 15:04