縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2013年2月19日

二月十九日 176年前のきょう、大阪で?

天保八年二月十九日夕方、八軒家浜から眺めると、対岸の天満が燃えている。
「大塩焼け」と後世に伝えられた大火となった。21日夜まで燃え続け、天満、船場、上町をほぼ全焼。市中の五分の一が焼失した。明治維新の30年前のことだ。

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この朝,大阪東町奉行所の元与力大塩平八郎は、自らの屋敷(現在の造幣局の一角にあった)に火を放って武装蜂起した。
世にいう「大塩の乱」だ。
天満橋をわたると、目と鼻の先の与力町に、大塩は住んでいたのに、ぼくはほとんど何も知らなかったが、NHKの「BS歴史館」がとりあげていた。


天保の飢饉に際し、陽明学者でもある大塩は、幕府役人と豪商の癒着の非をならして、救民の旗を掲げて決起した。「大塩の乱」の詳細は、大水都史「ドキュメント大塩平八郎の乱」をみてほしい。
大塩は、総勢300人で、大砲や火矢を打掛け、船場の豪商を襲い、奪いとった金銀を窮民に分け与える計画だったが、わずか半日で鎮圧された。
市街戦の武力衝突であえなく敗れた大塩たちは、混乱のさなか、ここ八軒家で同志十四名と落合い、船上から、天を焦がす大火を眺めたことだろう。横堀川から四ツ橋へむかい、燃え盛る大火に逃げ惑う群衆にまぎれてそれぞれに姿を消した。

のちに幕吏に襲われ無残な死をとげる大塩は、情報戦をしかけていた。決起の前に、建議書を、幕府要人、知人に送付した。幕閣を揺るがすだけの証拠をあげて糾弾したが、これは筋違いとして返送された。
陽明学者の大塩は心血を注いで、2000字に及ぶ決起の檄文を起草し、門弟たちと近郷の農民に配布した。機密を保持するために、版木を分けて彫らせた用意周到ぶりだった。
乱が鎮圧されても、檄文の趣旨に賛同する人たちの間ではひそかに筆写された。寺子屋の手習いの手本にもつかわれたという。
天明の大飢饉にあえぐ幕藩体制下で、上層部の不正を、元地方公務員が、大阪から立ち上がりただそうとした。大塩の乱は、30年後の明治維新への引き金として評価されている。
大塩平八郎ほどの頭脳が、平成のいまのようにデジタルのメディアを駆使活用できたとしたら、どうなっただろう。「アラブの春」以上の成果はあがったのではないか。

投稿者 nansai : 2013年2月19日 11:30