縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2013年2月28日

二月二十六日 あの「不祥事件」から、もう77年たってしまった。

77年前の今朝のことだ。夜半からはげしい吹雪に襲われた帝都東京で、陸軍によるクーデターが起きた。
大日本帝国の首都中枢部が、陸軍の反乱軍に占拠制圧されたのだ。

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号外は、「岡田首相即死す」。と報じたが、誤報だった。のちに終戦時の首相となった、鈴木貫太郎侍従長は、撃たれた血の海のなかで、とどめをさされず、一命を取り留めた。必死で命を救った夫人の声の録音が、最近発見され、NHK9時のニュースで放送された。
反乱軍は、大蔵大臣、内大臣、教育総監など、三人の高官を殺害し、警視庁、陸相鑑定、陸軍省、参謀本部などを占拠した  

「昭和維新断行、尊皇討奸」を掲げる、一部青年将校に指揮された1400名の兵士が、政治腐敗の元凶として首相など政府要人を襲った。いわゆる「二.二六事件」だ。 
先進国では、まれにみる「乱」であったが、当局は「不祥事件」として扱おうとした。

これに対し皇軍相撃をおそれた陸軍上層部の対応も、当初は「敵と見ず友軍となし」、軍相互の衝突をさけようとした。同調の気分もあり、当初は反乱軍と認定せず、あまつさえ首謀者の動機に義を認めるなどといい、動揺した。

とどのつまり、信頼する老臣を殺害された天皇の予想外のはげしい怒りに会い、青年将校たちの天皇親政のもくろみが消えた。、三日後には、戒厳令がしかれ、かろうじて内乱とならず、反乱軍として包囲鎮定された。
反乱責任者の処分は急スピードですすめられ、3月には特設軍法会議が開かれ、一審、弁護士なし、非公開で、7月には処刑された。

ここらあたりのいきさつは、ぼくもまったく不案内な現代史の盲点だった。ネットでウイキペディアをひらけば、客観性はともかく、事件のあらましの流れはわかる。
松本清張をはじめ関係者の多くの著書にも目を通していなかった。國體の明徴化など天皇制に対する距離感、関係者の歴史観の角度により、それぞれ解釈が微妙にタマムシ色に変わるのが、うっとおしかった。
このクーデターは、陸軍中央の内部の二つの流れの反目抗争に根差していたと後世の史家は分析している。これ以前にも、軍人によるテロが相次いでいた。
君側の奸を払い天皇親政を実現したい皇道派と、きたるべき総力戦にそなえ産軍共同体をもくろむ統制派とである。両派のあつれきはすさまじく、NHK大河ドラマの「八重の桜」で、尊王攘夷と開国といりみだれて戦った京でのテロのはげしさとむなしさと、重なってくる。
大日本帝国としては、しばらくは思い出したくも知られたくもない「不祥事件」として世をはばかるあしらいで、スピーディに一審で終わった軍法会議の資料も公開されなかった。


クーデターの前から、政府首脳を襲うテロは相次いでいたが、日本陸軍は.皇道派が壊滅して統制派を中心に一本化し、これを機にますます力を得た。
シビリアンコントロールは、ここに完全に失われた。
国会も政党政治は、軍部をおそれ無力化した。軍隊の不満が、テロのかたちで、いつどう暴発するかわからない、と世間が思い始めた。
今の中東諸国と同じ国内情勢だった。

最悪なのは、紛争不拡大を願う国や内閣、軍上層の方針と意向を差し置いて、判断を戦闘現場が下し行動する。それが暴走につながる「下克上」の状態におちいっていったことだ。現地軍がしかけた軍事衝突が、しだいに大きな戦争へつながっていった。現場を牛耳る幕僚が独自の判断で、軍の指揮をとる暴走。結果を上層部が追認するという、なさけない組織としてあるまじき流れとなった。これを「幕僚統帥」といったらしい。

そのまま日中戦争へ拡大し、1941年、今、誰が考えても勝ち目のない太平洋戦争に、国を上げて突入していった。国家組織のなかには、シビリアンコントロールという、重大な危険を察知するための正常な抑止メカニズムが機能していなかったのだ。フクシマと同じ状態だった。
あげくのはて国土は焦土と化し、日本国民300万人の尊い人命と海外資産のすべてを失ったのだ。

昭和天皇も回顧されているとおり、開戦時も終戦時も、決断にあたっては、軍部のテロを意識されていたことは間違いない。
ぼくは、さいきんNHKテレビの映像で歴史を学ぶことが多い。
NHKの特集番組は、これまで数度にわたって、この事件を鋭い仮説と発見された資料取材により掘り下げてきた。ぼくの知らなかった新事実と新見解で、不勉強なぼくの目からウロコのおちることしばしばである。

かえりみれば、1931年の「不祥事件」から1945年の敗戦までは、一本道だったといえなくもない。

投稿者 nansai : 2013年2月28日 10:27