縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2013年7月22日

七月二十二日 夏がくれば。

「なーつがくればおもいだす」という歌が、ふと口をついて出てくるときがある。
さわやかな尾瀬の朝を、ぼくは知らない。
思い出すのは、昭和二十年のくそ暑い夏だ。

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ぼくにとって、夏はトラウマだ。旧制中学二年生だった。なにもわからぬうちに、授業が停止され、全国の中学生は、工場に、陣地構築に狩りだされた。勤労奉仕でも、ボランティアでもない。
せまりくる本土決戦にそなえて「決戦非常措置要綱」を政府が閣議決定し、学徒動員の強化が組みこまれていた。三月に発令されていたのだ。この法令が、当時のぼくら中学生を動員したことを、くやしいことに、最近ウイキぺディアで知った。


昭和二十年。四月には沖縄守備隊は全滅していた。米軍の本土上陸にそなえて、陣地構築に、といっても、中学下級生は、古兵たちの穴掘り作業の補助要員である。本土西端の海岸線にそう山間に、機関銃座の横穴壕を掘るのだ。今思えば、谷間の両側に銃座をアリの巣のように、はりめぐらす計画だったのか。

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鉄筋コンクリートのかわりに、太い丸太を縦に並べるだけ。一発の砲弾で吹っ飛びそうな木製
銃座だ。
もちろん中学生には何の説明もなく,士気を鼓舞されることもなかった。暗い穴の闇を照らすカンテラのアセチレンガスのにおいを覚えている。

宿泊は、小学校の校舎を転々とした。授業も補修も訓練もなかった。もはや「学徒」もへちまもない。
空腹、下痢、ノミ、シラミが、やせこけたぼくらを悩ませた、はく靴はなく草履だった。白いシャツは、敵機からの機銃掃射をふせぐために藍色に染めた。
血を吸ったシラミは、藍のシャツの縫い目に、一列縦隊でびっしり並ぶから、ぶちんとつぶすのに発見しやすかった。

宿舎は焼け残った小学校だったから、新聞、ラジオとは無縁。報道管制どころか、途絶だった。沖縄、サイパンも玉砕し戦況の不利は承知していたが北朝鮮状態だった。風の便りの「新型爆弾」も原子爆弾とは知らなかったし、まず原子力の破壊力は、全くの無知だった。

情報からは途絶していて、八月十五日終戦の日も何の音沙汰もなく、ぼくらの作業現場にはラジオがないから玉音放送のあったことも知らされず、ただし作業は午前で終わった。
「終戦」の意味がわからなかった。ひきわけたのかと思ったりした。
「天皇陛下に申し訳ない」と二重橋前で土下座して泣き崩れるようなシーンは、ぼくのまわりではなかった。いまもニュース映画にくりかえし出てくるが。

がりがりにやせこけて体調は下痢で最悪だったが、電灯がついて家にやっと帰れるのがうれしかった。

十三歳の勤労動員は苦痛ではあったが、他校のきびしい例をきけば、ヘのようなものだ。
島が戦場と化した沖縄が最も悲惨だったが、たくさんの中学生が、全国各地で、爆弾、砲弾の犠牲になった。
なんともやりきれないのが、終戦一日前の八月十四日の空襲で、海軍工廠に動員されていた上級生が爆死したことだ。たった一日違いで、あたら有為の若者の命が失われた。大阪の砲兵工廠でも。
すでに無条件降伏をうけ入れた日本に、原爆投下後も、各地で執拗に爆撃を続行した米軍の卑劣な戦略に、いまも怒りを覚える。
ぼくら日本人は、安倍首相をはじめとして、あの戦争の総括をおこたってきた。あまりに多くの戦没者たち300万人の悲惨な運命をリアルに実感してこなかった。

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国は、平穏に生きていた人間の運命を、「東洋平和」「悠久の大義」「国体護持」という、次々に変わるキーワードのような「大義」で、翻弄した。国に命をささげた死者たちを靖国神社に祀る、参拝する、という形式次元の話ではない。
縁没者ひとりひとりの失われた人生に思いをいたさねばならなかったのに。近年の大震災の犠牲者に対するのと同じ敬虔さをもってである。

ぼくら日本人は、安倍首相をはじめとして、あの戦争の総括をおこたってきた。あまりに多くの戦没者たち300万人の悲惨な運命をリアルに実感してこなかった。
「硫黄島からの手紙」は、日本人俳優の出演する異色のハリウッド映画だが、日本側からみたリアルな戦場と銃後のギャップをするどくついている。クリントイーストウッドとスピルバーグが制作している。

アメリカの占領政策もあったろうが、あまりに無謀、無策な戦争の結果、日本の国民と日本が戦争に巻き込んだ国々がこうむった損害に眼をそむけてきた。なにかにかまけて、戦争責任という重い課題を先送りし、あえて正面から向き合おうとしてこなかった。
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戦争を知らない世代の少壮の日本現代史研究者が、つぎつぎにあらわれている。
ぼくたち戦争体験者が沈黙したままつぎつぎと世を去り、かろうじて焼却を免れた資料か、海外の公文書館に保存された資料の解読を通じて、客観的に日本が戦った軌跡を冷静に直視し解析しようとしている。成果に期待したいし、政府与党の国政指導者に学んでほしいと思う。学校で習っていないのだから。

吉田裕(一橋大学教授)は、日本ではいまだに「戦後」がおわっていないという。アメリカの歴史家グラックによれば、いずれの国も、「戦後」は50年代後半には終わり、日本ではいまだに長い戦後が続いていると指摘しているとも。戦争を体験していない世代の吉田教授は、戦争への想像力が欠けている現状に、危機感を感じると、このように述べている。
現在の日本社会では、戦争の現実、戦場の現実に対する「リアルな想像力」が急速に衰弱しているように感じる。知らず知らず、戦争をウオーゲームのような発想と感覚で戦争を観察し論評してきたのではないか。(岩波書店刊 シリーズ日本近現代史6から)

中学二年生が、いじめで飛び降り自殺したことが、マスコミで大きく報じられている。
国家が、国の未来を担うはずの中学生とどう向き合うのか。いじめもさることながら、最悪なのは、昭和前期ぼくらの時代のように、教育界あげて、少年を戦争にまきこむことだ。

夏が来ればくりかえし思い出す。
いまさら、ぼくはなにをいいたいのか。むかしのことを持ち出したい。
76年前の七月が、日本の運命を変えたことを忘れてはいけない。太平洋戦争の起きる4年前のことだ。
昭和12年の7月7日。中国盧溝橋で軍事衝突が起き、泥沼の日支事変がはじまった。宣戦布告もしないままに。

そもそも、当時、なぜ日本の軍隊が、他国の首都北京の郊外に駐屯し演習を行っていたのだろうか。中国軍とは一触即発のガス充満状態にあったのに。
76年前の盧溝橋での軍事トラブルがひきがねとなった。
そして、それから4年後の昭和16年太平洋戦争に突入した。あらためて、虚心坦懐に、歴史書をひも解いてかんがえてみたい。

投稿者 nansai : 2013年7月22日 14:22