2008年10月10日
十月九日
八日の株価は、5日続落し、終値は952円安。一日の下落率は、歴代三代目という。
えらいこっちゃ。世界恐慌前夜との説を成す評論家あり、ノーベル賞や野球より、もっと緊急の大事なことがあるやろう、といわれれば、そのとおりだが、

帽子脱ぎ髪をなであげまたかぶる
打たれたときの岡田監督(鳥取県 中村令子)
この歌は、朝日歌壇で見つけた。
このごろ、ぼくも今風の短歌に興味がでてきて、こういうふうにさらっと詠めばいいのだなと感じ入った。作者はダッグアウトの中をよく観察している。テレビの望遠レンズ越しでなければ、オカダ監督のこころのアップは撮れない。
ごくふつうの現代話し言葉を使って、平成のうたがよめるのだ。自然な感じがいい。
そうこうするうちに、昨夜の対巨人戦7連敗で、つかれきったよれよれの阪神は、巨人の若い投手リレーで、ダウンを喫した。意識朦朧の感じだ。
このところ、オカダ監督の帽子を脱ぎ、薄くなった髪をなであげ、無意識にしゃくるようにあごを傾けるジェスチュアが続いた。とうとうマラソンでいえばゴール寸前のトラックでついに追い抜かれた。抜き返す体力はもう残っていないだろう。
スポーツ紙のデイリーは
「陥落。奇跡信じるしかない。」と、141試合目の屈辱と総括している。

「サンスポ」の見出しは、
「何やっとんねん。怒りの虎党」メガホンなげるわ。ユニホーム捨てるわ。大荒れ東京ドーム。
と、情け容赦ない。
13ゲーム差をひっくり返された?
むかしの阪神なら当たり前で、オカダ監督の肺腑をえぐる口汚い野次こそ阪神ファンの本領なのだ。
今岡の守備のへっぴり腰が攻撃されている。
ダンカンはわめく。新井を三塁手にしろと。
金融崩壊で深刻な欧米の海外放送をみると、ノーベル賞で盛り上がっている日本とはだいぶ温度差があるようだ。ほんとに大丈夫なのか。
投稿者 nansai : 11:49
2008年09月26日
アリクイ「たえ」が脱走

以前にも脱走した前科一犯ミナミコアリクイ「たえ」が、またサンシャイン水族館の飼育小屋から雲隠れ。大騒ぎとなった。
飼育員が血眼になってさがしまわったがみつからない。灯台もと暗し。すぐそばの館内の床下に隠れていたらしい。三日目にえさにつられて姿を現したのを監視カメラに目撃され、御用となった。
やれやれ、まずはめでたし。茶番劇の自民党総裁選挙よりも、おもしろいとテレビでは、派手に報道された。
コアリクイは愛くるしいが、前足には鋭い大きなつめが生えている。なんとなくとぼけていて愛嬌のあるアリクイは、描きがいのあるモデルである。
ふだんお目にかかれないが、写真とくびっぴきで、マウスを動かして絵にしてみた。

投稿者 nansai : 13:07
2008年09月22日
思いがけず、チャップリンに会ってきた。
久しぶりで、大劇場で活動写真をみた。
なんと77年前に製作された無声映画である。しかも、フルオーケストラの生演奏の豪華版だ。活動弁士の姿はなかったが、字幕で筋を追いながら、京都市交響楽団の演奏をきく。もったいない気もしたが。

チャップリン「街の灯」(1931)は、無声映画の不朽の名作とされている。これにフルオーケストラが多才なチャップリンの作曲にしたがって伴奏をつけるのを、ライブシネマコンサートというらしい。再開発のため近く閉館する中之島フェスティバルホールで催されるとあって、切符をいただいて、のこのこでかけてきた。

映画史上の名作といわれる「街の灯」だが、これまでなんとなく敬遠して、しみじみと見たことはなかったなあ。
浮浪者のチャップリンが、街角で見かけた盲目の花売り娘に恋する。80分以上の全篇、コミカルなパントマイムのオンパレードだ。
なかでも極めつけは、ボクシング場面だ。相手のパンチから逃れようとレフェリーのかげにかくれ、ぐるぐる三つ巴になってリング場を動き回る。結局ノックアウトされのだが、そのおかしさは、半世紀以上たった今もふるくならない。
お笑いも、しゃべくりは、よそもんにはちんぷんかんぷんだが、パントマイムのドタバタは、世界中のだれにでもわかる。
そういえば、むかしみた「黄金狂時代」で、吹雪で山小屋に閉じ込められたチャップリンが、パンをフォークに刺しテーブルのうえでダンスさせるシーン。いまも覚えている。
チャップリンは時代を超えて熱烈なファンが多いから、おびただしい数のネットをみてみると、City Lightsのサイトもあった。
有名なラストシーンは、ぼくは深読みできなくて、うかつな感想を述べると、淀川長治さんなど熱烈なチャップリンファンからどやされそうだ。

愛する盲目の花売り娘の窮状を救うため、ボクシングのいんちき賭け試合に飛びこんだ、向こう見ずの浮浪者チャップリン。試合前のかれの晴れ姿?を描いてみた。
投稿者 nansai : 12:09
2008年09月17日
タイムマシーンで、難波津を見物。

「知らぬが仏。」いや、知らぬが宝、だった。
うちの事務所が借りているビルは、大川をすぐそこに見下ろせる上町台地の北端に立っている。北大江公園の西南の角だ。
二十年くらい前か、借りることを決めていたので、ビルが着工されることになって、現場を見に行った。
地下から文化財がでてきたとかで、市の文化財保護の職員がきて工事が遅れ、家主がやきもきしていた。
囲いが立てられていて、これ以上掘るとあぶない地下7メートルまでが掘られていた。なにやら土器が出てきたらしかったが、そそくさとすぐ埋め戻されて、なんの表示も記録のないまま忘れ去られていた。
島町のここら当たりは、大阪城の城のうちなので、豊臣時代の遺跡かなと思っていた。
出土したのは、意外にも、もっと古く、1200年前の難波京の頃の遺物だった。
くわしいことがわかったのは、ことし出版された一冊の本による。
「大阪遺跡」(創元社刊)に、「奈良三彩と難波京の井戸」という題で、宮本佐知子氏(大阪市文化財協会学芸員)のつぎの一文が掲載されていた。
「難波京の北西約1200メートル、大川南岸の高台で見つかった三彩の小つぼは、深さ7メートルもある井戸から、奈良時代終わり頃の土器といっしょに見つかった。
この高さ4センチの小壷は、唐の三彩をまねて日本で作られた奈良三彩。緑、褐色、白色の釉薬がかけられていた。
官営の工房でつくられたもので、だれでも手にいれられるものではない。このような奈良三彩が、どうして、この場所でみつかったのだろうか。どのような人が使ったのだろうか。」

陶器の絵は、ぼくが、同書の白黒の写真を見ていいかげんに描いた。現物とは程遠いと思う。
宮本学芸員によれば、同じ井戸からは、墨書で「摂」と書かれた土器片も出土した。「摂」は、摂津を示す重要なキーワードだ。
大川が見渡せるこの高台には、摂津を治める「摂津職という役所があったと推測される。
万葉集には、難波堀江(大川)で遊覧し、貴族の館で詠んだ一連の和歌が載せられていると専門家はいう。浅学なぼくだが、このロマンチックな一連の歌をさがしてみたい。
そんな歌を頼りにタイムマシーンに乗ってみよう。
ここは、大川のほとりの貴族の邸宅がみえてくる。難波津の良港はすぐそばだ。外国の賓客をもてなす館もある。
ここ、上町台地北のふもとからは、細長い砂嘴が、で千里丘陵まで延びていたらしい。土砂で船の航行が困難になったので、「難波堀江」が掘削された。目の前の大川である。
この先まで大阪湾が迫り、大陸から船が集まってくる。東は、葦の茂るラグーン、河内湖である。ここから、湖の奥にある草香津へ向かった。大和へは生駒山地をこえてゆくのだ。
知らぬが宝だった。
教えてもらえなかったから、難波京ときいても、カンケイが理解できなかった。奈良時代のこのあたりの情景は想像できなかった。出土した奈良三彩は、博物館にいけば、展示されているのだろうが。
1200年前、奈良貴族の館だったかもしれない島町かいわいは、中小のビルが雑然と建ち並んでいる。
奈良三彩。この貴重なお宝は、鑑定団でみてもろうたら、なんぼの値打ちがあるやろう?
出土した井戸の跡には、記念の石碑もなく、道の端ぎりぎりまで立てられた無粋な四角なビルが、21世紀の現実である。
きれいさっぱり誰からも忘れ去られているところが、いかにも大阪らしい、といえばそれまでだが。
投稿者 nansai : 14:07
2008年09月12日
サプライズ。突如、帰ってきた天才打者が結果を。
野球はドラマだ。しかも、人間の。
夕べは驚いた。タクシーの中で野球ニュースをきいて、万歳した。109日ぶりに、突然あらわれた今岡が打った。対ヤクルト戦。
姿を見せぬまま、すっかり忘れられていた天才打者が、関本選手の故障で急遽三番に登用されると、いきなり打った。
一回、走者一人をおいて、一番深い左中間にホームランだ。当てるのではなく、鋭く振り切った。
これは、めでたい。待っていたぞ。

栄光の背番号7。往年の首位打者、打点王も開幕からの不振で五月から登録を抹消されていた。
そして敗色濃厚の土壇場の9回裏、二死満塁に今度は選んで、押し出しの決勝点をもぎ取った。
今岡のスタメン発表にどよめいた甲子園は、大興奮だろう。
ここへきて打てない、守れないダメトラ状態化したへとへとの阪神に、やっと光明がさした。アサーだ!
「ついさっきまで鳴尾浜にいたのに、夢みたいだ」
この日34歳の誕生日をむかえた今岡は感無量だろう。この日も、昼間は、甲子園の近くの二軍にいた。練習していたら、いまから行け、といわれたそうだ。
「この日は、今岡による、今岡のための試合だった」とニッカンは、書いている。
人生なにがおこるかわからないが、今岡これからの健闘を祈るや、切。

今岡が万歳している新聞紙面の 片隅に、訃報がのっていた。
かれこれ半世紀前、同じ会社で机を並べていた入社一年上の先輩がなくなった。その後、有力企業のトップにまで登りつめ、財界の切れ者だったが、未練なく後進に道を譲り、あっさりと引退した。
若いころから、クールな大物だった。安サラリーマンの頃、ラテン語の文法書をポケットに入れていたのを思い出す。酒は一滴も飲めない人だった。合掌。
投稿者 nansai : 11:16
2008年09月09日
1500年前の「難波津」は、このちかくに?
このところ、浅学菲才の身をかえりみず、にわか郷土史家に変身している。「大水都史を編み後世に伝える会」)のサイト「八軒家かいわいマガジン」のたちあげに協力している。むかしの資料がないから絵が描けないのが残念だが、こんな具合に、八軒家船着場かいわいの史実資料をもとめて、犬のようにかぎまわっている。
難波津に咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと咲くやこの花
「古今集仮名序」に収録されているこの歌の「難波津」が、ついすぐそこの高麗橋の近くであるという学説を知って、にわか郷土史家のぼくはおどろいた。

ぼくは、この写真を難波橋の上から、西へ向かって撮影した。
タイムマシーンに乗れば、当時は、すぐそこまで海がせまっていたのだろう。ここらは上町台地の突端部である。大阪湾と河内湖をへだてていた上町台地は、天橋立のような細長い地形だった。
東のほうは、縄文時代、生駒山のふもとまで海岸だったそうだ。河内湾という。今の大阪平野南部は、海の底だった。
2世紀から3世紀にかけて、入り口が土砂で埋まり、湾が湖になった。河内湖である。草香江とも呼ばれた。瀬戸内海を東征してきた神武天皇の戦闘記録にも登場する。
左のこの写真は、天神橋から、現在の大川を、河内湖のあった東へ向かって撮影した。

タイムマシーンに乗ると、1500年前は、ここから東は、生駒山まで、ただ一面の湖水と湿地が見えてくる。
淀川、大和川がこの湖に注ぎ込み、長雨や豪雨のたびに水害をもたらしたので、日本書紀によれば、5世紀には砂州を東西に掘りぬく「難波堀江」が開削された。
教科書にものっているが、なんと現在の大川天満橋あたりらしい。
では、「難波堀江」はすぐそこではないか。不勉強なぼくは、ミナミの堀江とかんちがいしていた。
洪水を防ぐための堀江は、湖と海をつなぐ地形を生かした港、難波津を生んだ。
難波津は、2世紀から3世紀にかけて、古墳時代の物流の一大拠点だったらしい。河内湖の一番奥に草香津という港湾設備があり、5世紀に難波堀江を開鑿して、瀬戸内海からそこへ直行できるようにした。
難波津は、途中に作られた港湾設備だったらしい。文献によれば、難波館(なにわのむろつみ)と呼ばれる商館があったと伝えられるが、遺構は発見されていない。難波津の東、上町台地の先端からは、16棟の倉庫群が発掘された。
難波津という港がどこにあったか、資料がなく長年不明だった。
冒頭の「難波津のさくやこの花」という歌は、「古今和歌集 仮名序」に見える。「この花」は、梅だったといわれている。
仁徳天皇が即位したとき、百済の王仁博士が梅の花にこの歌を添えて奉ったとか。
さまざまな万葉仮名があてられた木簡が出土している。当時の手習いの手本とみられている。
さて、その難波津は、どこだろう?
今は見る影もない高麗橋のちかくという説が有力という。
近年諸説が整理され、三津寺町付近(千田説)と、高麗橋付近(日下説)にしぼられてきた。ぼくはまったくの門外漢だが、近年では、いろんな資料から高麗橋説に傾いてきたと聞き、当サイトとしては、高麗橋付近が難波津というロマンを支持させていただくことにした。くわしい論拠は、日下教授の論文を読んでみなくては。
投稿者 nansai : 13:45
2008年09月03日
「着てはもらえぬ?」ティーシャツ
Tシャツは、 メッセージやスローガンを伝えるポスターでもあり、人が着れば歩く広告媒体だ。
ぼくがこんなTシャツを着て地下鉄に乗り込んだら、

優先席にふんぞりかえっている若い人が驚いて席を譲ってくれるかなあ。(そら、あきまへんで。大阪では。テキもさるもので目をつぶって寝たふりを、しよりまっさかい。)
パソコンで絵を描いて、気に入ったのをプリントアウトするのには、Tシャツがいい。写真を現像に出し拡大するようなものだ。もっとも、人にあげても、喜んで着てもらえるか、保障のかぎりではないが。
さて、空文と化した「敬老の日」も近い。
後期高齢者に捧げるシャツのデザインを考えてみた。

「カメは万年」にちなんだ長寿を祝うケッ作なのだ。明るい色調だが、プレゼントしてはいけない。年寄りは、怒り出すかもしれないからだ。「着てはもらえぬティーシャツを」だ。
このようにぼくが自分で気に入ったのは、たいていは、ひとりよがりの出来だから、「どうだ」は他人には通じない。ン?とまどった顔をされるのがオチ。これもそのクチだろう。

つぎは、阪神タイガース優勝祈願シャツ。
危うし。阪神。
星野さんに北京に拉致された三番打者がつぶれ、頼みの押さえ投手JFKの三羽ガラスがかんかん打たれ始めた。最下位チームの横浜に、なんと5連敗だ。
このままでは、かりに優勝しても、日本シリーズにでられるか。ダイナミックシリーズが心配だ。
短期決戦に弱いことでは定評がある。データ野球が苦手らしい。
で、あわてて、白い子ネコをトラ柄にペイントする。

今年はいらないと思った「招き猫」を描いて、必勝を祈念することに。

子猫は、短い前足を上げて、「おいでおいで、」と、けんめいに勝ちを招くのだ。
いうてすまんが、ぼくは、マウスを操って絵を描く達人、いや変人である。
世にマウスで絵を描くあほな人は、少ない。プロはもちろん高度な道具を用いる。
老齢のぼくは、「ペイント」という初歩のお絵かきソフトのお世話になっている。これは、パソコンに初めて接するこどもたちか、キーボードにひるむ高齢者向けに、入門教材として使われるきわめて原始的なソフト。ウインドウズには、無料でついている。
習いべたのぼくは、60半ばの手習いで、雑誌の記事を見て、これなら自分にも描けそうだ、とはじめた。独習である。
思いついたらすぐ描けて、あと始末がいらないのが気に入っている。失敗しても、パソコンが保存してくれるのがありがたい。紙くず箱のおせわにならないですむ。
投稿者 nansai : 14:17
2008年08月28日
京阪新線開通を、何とか、このかいわいの町起しに
ことしも、ここ八軒家かいわいの恒例ベントが企画されるらしい。ご町内の実行委員会の企画メモがまわってきた。あわただしく京阪電車新線開通にあわせて、十月十九日から二十四日まで。

手づくりのライブコンサート、「たそがれコンサート」を開く。場所は、北大江公園芝生広場。町内の音楽関係の皆さんに声をかけてもらって、これからミュージシャンを集める。

去年は、トルコ楽器の演奏などインターナショナルなムードで盛り上がった。あいにくの雨模様で、湿気で太鼓の皮がぴんとはれず、目玉演目の和太鼓演奏は、やむなく中止となった。
京阪新線で、町おこしだ。と、八軒家浜かいわい一帯は、気合がはいっているらしい。早めにポスターを間に合わせるようにいわれた。
例によって、町内のだれが責任者かわからない。無責任うやむやは、ずぼらなぼくの望むところ。

昨年のぼくの作ったポスターは、楽器の描写がいい加減だったからか、町内で悪評さくさくだったらしい。
「あれは、だめでした」
一年たって、マリアンの大将が、ボランティアのぼくを、ぼろくそにこきおろす。
なんの資料もないままに、十五夜お月さんにちなんで、はるばるウサギの楽師たちを呼んできたのだが、えらく評判がわるかったそうな。うさぎくんたち、ごめんな。
もともと幼稚園児のおえかきのようなポスターなので、楽器の精密正確なデッサンをのぞまれてもこまるのだが。


なにせペイントとマウスで、思いつきをかたちにするスピードポスターだ。
変幻自在のお好み描きのようだが、それでも、でっちあげるのには、気合の充実が必要である。
気を取り直して、北大江公園の滑り台をモチーフにして、イメージスケッチができた。ぼちぼちと思いつきアイデアの破片をならべてみることに。
このふてくされている野良ネコは、ぼくではない。
一年前まで、北大江公園のベンチにうずくまっていた。
夜陰にまぎれてえさをやる奇特なご婦人も見かけたが、ねこはいつしか姿を消したままだ。

ところで、余計なことだが、コンサートの愛称を「たそコン」とちぢめると、いいひびきだと思うのだが。
投稿者 nansai : 16:11
2008年08月26日
「筋」メダルは、もういらないのでは。
おもしろうて、やがてかなしき、五輪かな。

お隣りの国の威信をかけた空前の大運動会は、終わった。
どちらさまも、おつかれさん。
オリンピックの観衆は、テレビの前で、感動のドラマを期待している。逆境に耐えて耐えて勝ち抜いて、涙の栄冠をつかむ美談だ。文部科学省提供の大河ドラマだ。
当家は、メス猫を含めて3人の女から「日本の男子はなんや、」と攻撃されている。それに比べて、女子は根性がすわっていると、多勢に無勢で旗色が悪い。
うーん。女子ソフトボールの日本チーム連投連勝はすごかった。正座して、応援した人もいたそうだ。
闘いが終わったあとの表彰式でも、日米両チームが、地面に「2016」と黄色いボールをならべて文字を描いた。ソフトボールの次の次のオリンピック競技種目復活をアピールしたのだ。
あれは、さわやかなアイデアだった。敗者アメリカチームのいさぎよい提案に、惜しみない拍手。

年俸総額46億円の選手を擁し、ノーメダルに終わった野球が、重量挙げ競技とはしらなかった。
選手村に泊まらずホテル暮らしのセレブ選手たちには、日の丸が、あんなにも重かったのか?
ハングリーな敵の勝ちたい思いに負けたと、宮本主将はくやしげにいう。
記者会見でも、「すべて私の責任。」と言い切り、あたりを睥睨するカリスマ監督を、スポーツ記者たちは、心中を察してか、おそるおそるの質問も腫れ物にさわるようだった。
敗軍の将は、いろいろ事情もあったろうが、「申し訳ない。なにをいっても、いいわけになる。」の一点張りだ。
ぼくたちしろうとは、やれ配人ミス、やれ配球ミスと、うっぷんばらしに、言いたい放題。テレビワイドショーに寄せられた町の敗因アンケートも、結果論だから、いいとこをついているな。
国際競技に、シーズン中のプロ選手をだすのがまちがい。アマチュア選手にチャンスを与えよという意見もあり、説得性があるように思われる。でも、終わったことだ。
あれで、いいのだ?
負けるべくして負けた。そうかなあ。そうかもしれん。

さて、舞台変わって、次はロンドンだ。
その次の2016には、東京五輪で、メダル量産へ。と、新聞は報じている。本気だろうか。
国家主導の強化策におくれをとったというが、日本が、オリンピックでメダルをとるために、国の税金を湯水?のように使って、選手の強化に努める。
それも限界があると思う。
文部科学省は、平成22年までにメダル獲得率3,5%を実現したいらしい。同省のホームページには、現在、土佐礼子選手の写真がのっている。いたましい。
柔道、マラソン、体操、レスリング、バレーボール、シンクロナイズドスイミング、野球など、往年の日本のお家芸は、世界の隅々から沸き起こる新勢力に太刀打ちできなくなっている。
日本のきわめつくされたトレーニング方法は、新興国の選手に有効なので、教えれば、あっという間に実力を身につけてくる。いい例が、シンクロ、マラソン、野球だ。
マラソンも高速になり、アフリカの国々が躍進してきた。灼熱のコンディションをものともせず、21歳のケニヤ青年がゆうゆう優勝した。かれは、日本の高校でマラソンの基礎指導を受けてきた。
日本男子選手三人のうち、一人は出場を断念し、一人は、かろうじて完走したが最下位だった。

専門家の意見はどうなんだろう?
オリンピック競技で勝ち抜ける身体能力は、泣いても笑っても、遺伝子でまずきまるのではないか。練習や根性以前に。
記録にはまったくの素人がテレビをぽかんと見ながら、ぼんやり考えた。
ジャマイカの男女各選手は、簡単に世界記録を更新する。水泳競技も、アフリカ各国の黒人選手がプールで練習するようになれば、様相がかわるだろう。

人種別に、身体のサイズ差、筋肉の量と質が、まず優先する。それに、体調管理と正しいトレーニングがともなえば、確率高く、世界各地から優れた選手が泉のごとく輩出するだろう。
昔に比べて体格がよくなったとはいえ、わがヤマト民族はどうみても不利である。
いいことかどうかはべつとして、世界水準の競技に勝つために、国境、国籍を超えて、レアメタルのように身体能力のすぐれた人材が移動している。スポーツ資源の自由化といえよう。
サッカーのナショナルチームでも、旧植民地出身、移民、帰化、いろんなかたちで身体能力にすぐれた有能な素材を、各国こぞって集めようとしている。
大リーグ、大相撲、サッカー、卓球などでは、人種、国籍、国境を越えた人材集めは、いまや常識となった。

身長の差、すらりと伸びた足の長さなど、人種間の先天的サイズや能力差も、容姿が採点に響く種目では、いかんともしがたい。
残念だが、それを無視して、国民の体力が競技に向いていない国家が、しゃにむに、メダルの数を競うのは、むなしいことだ。豊富な資金にものいわせても、根性と鍛錬だけで、メダル獲得競争に挑戦するには限界があるのでは。
北京オリンピックをみると、素人目にも、スポーツの世界でも、時代は変わったように見える。
日本人のような小さな選手は、努力だけで、これまでのように、時には、勝てるのだろうか。
筋力の競争では、メダルにこだわらず、負けても仕方がないと割り切って無理をさせない。
「身の丈」サイズで戦わざるを得ない。さほど筋力に頼らなくてもよいスキマ種目は、フェンシングやカーリングのほかにも、まだあるのではないか。ないかもしれない。
「身の丈」の筋力で勝てる種目で勝負しようではないか。
筋力では劣っても、長寿耐久生存競争ならば、日本が男女ともに金メダルだ。カンケイないな。

日の丸が重いのなら、クーベルタン男爵のオリンピック宣言の原則にもどればいい。参加することに意義があるのだという。
投稿者 nansai : 17:15
2008年08月22日
大川の川面をオニヤンマの大群が飛んでいた頃
当たり前の風景がなつかしく思える。自分は、体験していないのに。
天満橋の下を流れる大川(昔は、こちらを淀川といった)を、オニヤンマの大群が飛翔していた。といっても、70年前、戦前のはなしだ。
ご近所のよしみで、昭和の初期から、代々、石町(こくまち)にお住まいの萩原理一さんに、当時の八軒家かいわいのお話をうかがった。
萩原さんは、昭和4年のお生まれである。

昭和の始めごろ、八軒家浜は、京阪電車の開通でお役ごめんとなった船着場は取り払われて、電信柱の置き場になっていた。
ちょうど今頃の季節、夕方になるとオニヤンマが編隊をくんで飛び回っていたそうだ。オニヤンマは、身長10センチもの巨大とんぼだ。今ではめったにお目にかかれない。
萩原少年たち悪がきは、50センチくらいの糸の両端に小石など錘をつけて大空たかく投げ上げる。群れをなして飛ぶオニヤンマを待ち構えて、からめとるのが、あそびだった。「とんぼつり」といったらしい。
小石をムシとかんちがいしてヤンマが飛びつき、糸にからまり落ちてくる仕組みだ。各地でいろいろな「とんぼつり」法があったようだ。
戦争が近づいていた。
とんぼ飛ぶ大川も、かつての京都との船での往来はなく、当時日本最大の兵器製造工廠、片町の大阪造兵廠へ物資や武器を運び入れ運び出す運搬船が行き来していたという。
まもなく、ここら一円は昭和二十年六月の大阪大空襲で、見渡すかぎり、焼け野が原となった。
京町通りから北大江公園に通じるこの石段は、焼け残った。いまも昔の姿をとどめている。

戦後、石段を登ったところの焼け跡を利用して、北大江公園が、石町通りをさえぎるかたちで、つくられた。防災目的だったのだろうか。
戦前のせまい島町通りは、トラックの少ない時代で、荷馬車の往来がはげしく、馬の糞があちこちに散乱していたそうだ。
戦前ここらあたりは、軍関係、株屋さんなどの大邸宅が多かった。
石段の横のしゃれたピロティ形式の洋館が、萩原さんの生家だったが、大阪大空襲で焼夷弾のケースの直撃をくらった。焼夷弾は、今でいうクラスター爆弾でケースのなかに子弾として48発のM69焼夷弾を内臓し、これが上空700mで飛び散る構造だった。
萩原さんによれば、生家のすぐ裏に、大きなロシア正教の教会が建っていたが、そこも空襲で焼けたとのこと。
へえ、あんな場所に教会があったとは、初耳だ。
さっそく、ネットで調べてみたら、1910年、明治43年7月に、木造ビザンチン式の聖堂が建立されたとある。
日露戦争のロシア人戦没者を弔うために寄付により建てられ、「大阪生神女庇護聖堂」と名づけられたという。昭和二十年灰燼に帰したが再建はならなかった。

萩原さんの話では、京都の押小路通にも、そっくり同じ形式の教会が残されていて、疎開取り壊しを免れ、有形文化財に指定されているらしい。この絵はネットの写真を見て描いたもの。
このようなエキゾチックな教会が、マンションやビルの立ち並ぶ北大江公園のそばに建っていたのを、町内でも知る人は少ないのではないか。
投稿者 nansai : 11:23