縦書きブログ「八軒家南斉」

WEB1グランプリ 準グランプリ受賞

2015年11月25日

十一月二十四日

十一月二十四日 来年の干支はサル。こんな時代だが、賀状、どうするか。

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年賀状のアイデアをあれこれ考えるのは、面倒くさいが年末の楽しい仕事だった。干支の動物にこだわって、パソコンでマウスを操って描く。ひとりよがりもいいところ。
しかし、時は流れ、賀状をやりとりする友人知人の輪
も、年々、縮まってきている。辞退のはがきも、次々に寄せられてくるのがせつない。老いも若きも人生いろいろ、皆が皆、がんばって、無事で元気とは限らない。
賀状も、シンプルに「新年おめでとうございます」だけでいいじゃないかとも思えてくる。
世界も社会も、ひたすら無事平穏な年を願っている。
ノーテンキにはしやいだ賀状はいかがなものか。

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と自問自答はしたが、ことしは、ぼくの干支のサル年である。例年通り、干支のサルたちに登場願って新年のごあいさつさせることに。
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さて、ここに並べたサルやゴリラたちは、いまはむかし、12年前に描いたもの。パソコンのドキュメントをのぞいてみると、かつて描いたサルたちが、出来不出来はさておき、うようよいるではないか。数匹引き上げてごらんに入れることにした次第。気が向いたら新しいサルやゴリラを追加しよう。
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すっかり忘れていたが、2003年のあの夏は阪神タイガースがセリーグ優勝した年だった。調べてみたら夢のような一年だった。
星野監督二年目、選手を大幅に入れ替え、懐かしい名選手が活躍して開幕から首位を独走、2位中日以下を全く寄せ付けず、18年ぶりにぶっちぎりで優勝した。
一度も球場に足をはこばないぼくも「熱唱六甲おろし」で酔いしれる甲子園の熱気を描いた。

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花のパリも無差別テロを警戒しなければならない時代だ。テロ抑止にキングコングのパワーだ!という陳腐なアイデアは、もっと展開してみたい
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投稿者 nansai : 17:44| コメント (0)

2015年1月23日

一月二十八日

満州事変?きいたことがありますか。
戦いが終わって70年。日本はかつてどう戦ったのか。もう自分たちの歴史に目をそむけてはいけない。

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「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々がなくなった戦争でした。」
と、天皇陛下は新年にあたって、「戦争の歴史を学び、考えることが極めて大切」と強調された。
「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えてゆくことが、今極めて大事なことだと思われます。」
陛下は、今の日本人に必要なのは、戦争へ突き進んだ時代を真摯に見つめなおすことだ、という重い問いかけをされたのではないか。(サンデー毎日)

天皇誕生日の談話でも、昭和戦争では三百十万人の日本人が犠牲になったことに改めて触れ、「夢を持って生きていた多くの人々が若くして命を失ったことを思うと本当に痛ましい限りです。」と述べられた。
このように、80歳を迎えた天皇の談話が、平和メッセージとして、マスコミ各社にくりかえし引用されたのは、異例のことだ。
あたかも、安部内閣、自民党のなにやらキナくさい「歴史認識」を、たしなめるようにもとれるからか。

天皇が示唆された、歴史認識のキーワードは、「満州事変」である。
日本人として、きわめてまっとうな歴史認識がここにある。
今、日本人の大半は、昭和六年に中国大陸で起きた「満州事変」とはなにか、認識がないのではないだろうか。日本が「建国」した満州国も。


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これは満州国の国旗である。黒い喪章はぼくが描き加えた。
昭和ひとけた生まれの同じ世代だが、天皇も、菅原文太も、高倉健も、当然昭和六年の満州事変の記憶はない。小学校の図画の時間でこの国旗の絵を描いた人はいた。

さきの戦争へ、なぜ日本がつきすすんでいったか、満州事変前後を、最近の史料によりふりかえってみよう。
思えば、昭和ひとけたの日本は、国の首脳が襲われ暗殺されたテロとクーデターに明け暮れた。青年将校、右翼たちが、天皇親政をもとめ、財閥の横暴をとがめ、君側の奸を除くというスローガンのもとに、総理大臣、大蔵大臣など重臣たち、民間の財界トップが襲われ暗殺された。
昭和六年の三月事件、十月事件のクーデター計画、七年の5.15事件の海軍士官と民間右翼の連合テロ、昭和十一年二月の陸軍青年将校によるクーデター。
関東軍と軍中央が動いて満州事変がおこり、傀儡政権の満州国が建国された。
同時に、決して進んではいけない方向に、国家を導いてゆく潮流が徐々に強まってきた。

政党は崩壊し、いつしか国策は、議会における討論やトップの決定よりも、エリート軍官僚の頭脳により策定されるとした。
派閥争いを勝ち抜いたエリート軍部官僚たちは、ドイツの国防軍をみて、次の戦争は、「総力戦」となると予想、国家総動員体制、統制経済が必要とした。
こうして軍国主義へと向かった日本は、エリート軍部官僚の描いた「国家総力戦」のシナリオ通りに、とりかえしのつかない誤算をくりかえしながら、秘密裏にことがすすんでゆく。
軍部は、満蒙、蘭印の資源確保をうかがいつつ、ナチスドイツがイギリスやオランダに勝利するとみて三国同盟を結び、ドイツ勝利を機に蘭印などを漁夫の利を計算したようだ。
しかし、石油資源を得るために南進をねらった仏印進駐で、米英との対立が決定的となった。アメリカの石油全面禁輸は予想してなかったとされる。当時の石油の備蓄は二年、切れれば、軍艦は動けなくなる。
こうして、軍主導で杜撰な戦争計画がすすめられ、ついに、どう計算しても勝ち目のない太平洋戦争に突入してしまった。

戦後70年は節目の年である。
歴史認識をめぐって、国内外で、いまなお、はげしくもめている。
先の戦争で日本軍は270万人を失ったが、他国の領土で戦い、ために他国の人々が巻き込まれておびただしい犠牲が出た。
せっかく天皇が示唆されたように、あらためて戦争の歴史を正しく学習しなければ、と思う。


投稿者 nansai : 17:36| コメント (0)

2014年12月10日

十二月八日

きょうは十二月八日。この日は日本にとって何の日か。
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奇妙なことに、朝日、毎日、日経など大新聞の一面は、紙面のどこにも取り上げていない。社説も、連載コラムも。
テレビも沈黙したまま、選挙報道をくりかえしていた。なにかメディアのあいだで申し合わせでもあるのだろう。

あらためていうまでもない。
73年前の、その日払暁、日本海軍はハワイ真珠湾に停泊するアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃した。日本時間12月8日(ハワイ時間12月7日)のことだ。同時に、アジア南方各地で戦闘状態にはいった。いわゆる「大東亜戦争」の火ぶたが切って下された。

そして、あの大勝利をおさめた戦闘の結果は?宣戦の大義とは?(事前通告はなぜか間に合わなかった)そのあとは?あれからこの国に何が起きたか。泥沼だった中国本土での勝算のないまま、米英相手の総力戦に踏み切ったのか。

敗戦までのたった4年間で、三百万人以上の死者を出し、空襲により国土が焦土と化し、大日本帝国は、海外資産のすべてを失った。

なのに、日本のマスコミは、日英米開戦の日、これほどの歴史的大事件の起こった日をふりかえろうとしていない。
日本のマスコミに頼らなくても、日米双方のネットをみれば、戦後69年たって双方の極秘資料公文書もぼつぼつ公開され、若手学者たちの研究もすすみ、昭和天皇実録をはじめ、おびただしい論文著作が出版されたとわかる。しかし、かんじんの戦争を起こしたいきさつや責任は、諸説ふんぷん、歴史の機微にふれるとみえて闇のなかだ。

十二月七日。攻撃されたアメリカでは、毎年この日は真珠湾追悼記念日とされ、夕暮れまで半旗を掲げ、2403人の犠牲者を追悼するならわしである。当日、米側の8隻の戦艦が損傷し4隻が沈没という大損害を受けた。
2日間炎上し1177名の乗組員とともに沈んだ戦艦アリゾナは、今も沈没状態で保存され残骸が国定慰霊碑に指定され、艦上には「アリゾナメモリアル」がある。現在も艦体から一日1クオートの油が漏れ続けているという。
7日、ホノルルで行われた73回式典には、100人の第二次大戦の生き残り在郷軍人たちも、杖をつき車椅子に乗って参列した。

69年前日本機の攻撃の始まった7時55分には、F22ジェット戦闘機が轟音とともに低空を儀礼飛行した。
午後には、4人の戦艦アリゾナ生存者(90歳を超えている)が、記念館に集まり、斃れた無念の戦友に乾杯。グラスを潜水夫がもぐって海底のアリゾナの砲塔に置いた。以上はAPの報道から。

ハワイ大空襲の奇跡的大勝利に日本中の一億国民が湧きたち酔いしれていた新聞紙面を思い出す。「神国日本」に生まれたぼくは、小学校4年生だった。学校の講堂に集められ、校長先生から戦争が始まったことだけ聞かされた。
昭和16年当時は、テレビもなかったし、ラジオも普及していなかったから、大本営発表は聞いていない。なぜか一人足りない九人の軍神の記事を切り抜きスクラップした。

同時代に生きぼくらは、正確な情報を知る由もなかった。しかし、輝かしい戦果に、日本を代表する知識人、作家たちが躍り上がって歓喜した。

神州不滅を理由もなく信じていたぼくらは、三年後敗戦して焼跡で現実の悲惨を思い知った。なにしろ二七〇万人の兵士が戦没したのだ。歴史認識が、いかに幼かったか、偏り、かつ誤っていたか。

敗戦した日本は、軍関係者が資料を隠滅しようとしたといわれる。戦地でなにが起きたのか、資料をほとんど焼却し、最近まで高齢の元兵士たちは口を閉ざして戦争の実相を語ろうとしなかった。
「NHK 戦争証言アーカイブス」は、戦争を体験した兵士や市民の声を取材した貴重な証言動画サイトである。戦争を知らない人たちにぜひみてほしい。もちろん安部首相はじめ指導者たちにも。

12月8日だけを考えてみても、いまの日本塵は、戦争を風化させようとしている。戦争の惨状をいい伝えようとしていない。思い起こそうとしていない。
歴史の事実を、戦った双方の思いを、学ぶ必要がある。双方が加害者であり被害者なのだ。
争うお互いが振りかざす「大義」とか「正義」ほどあてにならぬものはない。そのために若い命が失われた。

東洋平和のためという国是が、戦争末期には、「国体護持」。つまり、皇室の血筋を絶やさないためには、「一億玉砕」も辞せず本土決戦とかわった。原爆で大きな被害がでたあとも、軍人を中心の指導者は、本土決戦を強力に主張したといわれている。(最近では、少子高齢化がすすむと、50年後の日本には、せめて一億の人口が生存してほしいというのが、政府見解だ。)
一億人の人命と幸福を投げうってまで守ろうとしたもの。
誰が決めたのか。当時の民意か。先の見えない為政者の国是や閣議決定の危うさを思う。地方振興の仮面をかぶった自民党の原子力政策も、しかりだ。

昭和の大スターだった菅原文太氏は、生前、講演で若者たちに、戦争だけはやるな!と呼びかけていたという。高倉健氏と同じく、少年のころ、先の戦争に、首の差でひっかっていた世代だ。

アメリカのネットを開いてみると、第二次大戦の情報が克明にアーカイブされている。真珠湾攻撃の詳細はもちろん。時の大統領ルーズベルトは、だまし討ち奇襲に激怒し、その日を「デー オブ インファミイ(恥辱の日)」と名付け、大日本帝国への復讐を誓った。
いま海底に眠る戦艦アリゾナの艦上に設けられた記念館には、毎年大勢の観光客が訪れる。
もちろんおそらく「歴史認識」の浅い日本人観光客も。
いまや押しかける日本人観光客はハワイ州の大きな収入源なのだ。
真珠湾関連サイトのなかには、数年後のパールハーバー記念日に学生のバンドコンクールが予定されていて、早くも日米の学生に参加を呼びかけている旅行代理店のサイトもある。時代の波を感じる。
真珠湾攻撃から、70年近くになる。
アメリカという国は、りメンバーパールハーバー。真珠湾を。決して忘れない、しかし、赦し、お互いに、ハッピーにやろうというところがあるようだ。

これから世界で生きる日本人は、70年前ホノルルでなにが起きたのか知っておきたい。入学試験にでなくても、自国の歴史を正しく身につけてほしい。ぼくとか高倉健、菅原文太たちが受けたような戦前の神話の歴史ではなく。

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戦争や原子力発電などの国策は、わが国を取り巻く世界を知り、すくなくとも五十年、百年の市場原理を踏まえて策定すべきだと、つくづく思う。国民投票にはなじまない。この原理に逆らえば、とてつもなく高い代償か、死が待っている。
国家百年の計。市場メカニズムのそろばんに合うか合わないか。国のゆく末を、百年単位で予測する政策を、だれが、どんなしくみで、担うのか。
国威発揚とか、選挙対策とか、経済界の目先の採算でなく、国益を損じない国策をだれにゆだねればよいのか。
太平洋戦争を、大東亜戦争といいかえても、すくなくとも軍人出身の指導者の手に負える仕事ではないのは、歴史が証明した。
たとえ、政権をくつがえすクーデターという権力奪取力を持つても、軍人には、半世紀後の市場メカニズムは読みとれないからだ。

日本は、先の戦争でなにを学んだのだろう。
昭和のはじめ、ソ連を警戒し中国大陸に日本の農民を送り込もうとし、日本の政策に反発する英米ほか諸外国から中国の支援が寄せられた。これにいらだち、石油資源を蘭印に求めようとする仏印への南進政策が裏目に出て、石油の禁輸を突き付けられた。
当然石油の備蓄がなければ、海軍は戦えない。
やむにやまれずといって、三百万の人命と在外資産の喪失、国土の焦土化(敗戦による損失の総計をまだ知らないが)のリスクを天秤にかけ、どんなバランスシートを当時のエリート為政者は想定したのだろう。
精神力。伝えられるように、これがすべてを解決すると、当時の指導者は、まじめにかんがえていたのだろうか。

投稿者 nansai : 18:03| コメント (0)

2014年11月17日

ヒツジの年賀状

十一月十八日
年賀状にのせる羊の絵。ことしも懲りずにパソコンで描いてみました。
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郵便局へ行くと窓口で年賀はがきを熱心に、というかしつこくすすめている。今年も40億枚ちかく売りだされるのだろうから、たいへんだ。
ぼくの年齢になると、年賀状も、悲しいことに、年々出す先が減っている。欠礼のはがきもふえるいっぽうだ。
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この隠れ家的サイトは、毎年ひっそりと来年の年賀状のアイデアをのせている。
だれにたのまれたわけでもないが、干支のお題のお絵かきが、ぼくのたのしい歳末行事となった。出すあてのないままに。

ぼくは、長年ウィンドウズの無料ソフト「ペイント」をマウスで動かして、たどたどしく、(たどたどしくしか描けない)絵を描いてきた。ほかにデジタルでこんな描き方をする人はいなくなったようだ。
輪郭の線がギザギザでぶるぶる震えているのが、ペイントの持ち味。マウスの場合、ペンのようにはすらすら描けない稚拙なところが、いいじゃないか、と本人は気に入っている。年賀状のイラストには、絵手紙のように、よく合うはず。
ほんの数えるほどだが、ぼくのアイデアを毎年たのしみにしている奇特な人たちがいる。
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ところが、ことしついにウインドウズXPが廃版となり、ことわりもなく、ぼくの片腕の「ペイント」(無料のおまけソフトだった)も道連れにされたのだ。
これがなくなると、お手上げで絵が描けない。幼児とか高齢者、自閉症の人たちにも使えるやさしいお絵描きソフトなのに。
途方に暮れたが、ようやく、知り合いの専門家を拝み倒して、旧式「ペイント」を、セブンに組み込んでもらった。やれやれ、一安心である。
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いざ描くとなると、めでたい干支のアイデアは似たようなものだ。12年前描いたヒツジの絵をアーカイブから引き出してみると、大体同じ発想だ。変化のつけようがないが、今回はちょっといささか視点を変えてみた。マンガ時代に大きくずれているぼくの関心は、かわいい、お目目のでかいキャラクターにはない。
とぼけたタッチで、たわいのないことでも、あれこれ考えを巡らすのはいい気分だ。認知症予防にもなるかなあ。以下アットランダム、思いつくままに、並べてみた。
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ついでながら、デジタル横組みの時代ではあるが、ぼくは、日本人にとって読みやすい文章は、縦組みだと固く信じているマイノリティのひとりである。
大量の日本語文字は横組みでは、拾い読み、飛ばし読みはできない。
このサイトは、もともと、日本語の自然で読みやすい縦組みを、なんとか横組みばかりのレイアウトになじませたいという目的で始めた。
寄る年波と使い慣れたXPペイントの消えたこともあり、ちょっと息切れ状態だが、美しい日本語の縦組みレイアウトを、次世代の後継者が引き継いでほしいと願っている。



投稿者 nansai : 20:05

2014年1月10日

一月十日 「赤紙」という人さらい。

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赤紙とは、国民を軍隊に徴集する召集令状だった。

毎日新聞のコラムの見出しに胸をつかれた。牧太郎の「大きな声ではいえないが」に引かれている川柳だ。

昔むかし「赤紙」という人さらい  矢部あき子

明治六年のきょうは、国民皆兵を建前とする徴兵令が出された日だ。
明治政府は、外国の軍隊を参考にした。目的は、上下の身分のへだてなく、20歳に達した男全部が三年間の兵役につくこととされた。

昭和にはいって、多くの若者が(赤紙に印刷された召集令状)一枚で招集され、万歳、万歳と、日の丸の小旗と歓呼の声に送られて戦地に赴いた。そのまま故国の土を踏めず、戦没した兵士は、太平洋戦争で270万とも数えられる。

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役場から配達された赤紙1枚で、若者も、一家の主人も、戦場に送られた。お国のために。
応召は名誉とされた。離脱は許されない。逃亡すれば、家族親族郷土の恥、迷惑となるのを恐れた。アメリカのベトナム戦争のときのように、「良心的徴兵拒否」を唱えてカナダに逃亡するなど許される状況ではなかった。四面海に囲まれている日本は、鉄条網に囲まれた兵営のようなものだったから。

戦争末期、乳飲み子だった桂三枝師匠の父上は、結核におかされていたが本土防衛のため招集され、激しい訓練で病状が悪化し帰らぬ人となった。27歳。いたましいことだ。若い夫婦の幸せを奪い、一家の柱を倒す、まさに「赤紙という人さらい」だった。(NHKファミリーヒストリーから)

昭和史の真ん中ほどにある血糊    小田島花浪


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戦争が激化してからの徴兵は、残酷なものだ。
昭和19年には、徴兵年齢が17歳にひきさげられた。
昭和20年には本土決戦構想で「根こそぎ動員」が決まった。つづいて「国民義勇隊法」が公布され、15歳以上60歳までの男子、17歳以上40歳までの女子は「義勇招集」により「国民義勇戦闘隊」に編入され、義勇兵として戦闘に参加することになった。

当時13歳の旧制中学校二年生のぼくは、なんと文部省の「決戦教育措置」により、一年間授業停止となり、本土海岸の防衛陣地の穴掘りに駆り出されていた。
少年のぼくらには赤紙はこなかったが、あと2カ月降伏が遅れていたら、本土でも沖縄戦と同じ状況が展開されていただろう。軟弱なぼくも15歳に達すれば、国民義勇戦闘隊に組み込まれていた。

軍部が牛耳っていいた政府は、戦争指導した。一億玉砕しても、「国体」を護持せよと。
太平洋の防波堤となり時間をかせげとはひどい話だが、サイパンも沖縄も落ちた。この期におよんで、何のために戦うのか、戦争の大義は、「国体」を守ることにすり替わっていた。
「東洋平和のためならば、なんで命が惜しかろう」と、ぼくらは幼いころから歌っていたのに。

投稿者 nansai : 15:40

2014年1月 6日

一月一日 お正月に国旗のことを考えた。
もったいないと思う。

戦前のお正月には、家ごとに玄関に国旗をたてた。
へんぽんと翻る国旗掲揚というような勇ましいものではない。どの家の玄関先にも、国旗は金色の丸い球を頭に付けた旗竿に結び付けられて、うつむきかげんにしなだれて立っていた。
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それでいて、家家に日の丸が並ぶと、正月らしい華やいだ気分になれたと記憶している。
「ああうつくしや、にほんのはたは」と、幼いころ歌った記憶がある。日の丸は美しい旗だ。

平成の今は、大阪市郊外の当家の周辺で国旗を立てていた家は、わずかに二軒。実は、わが家も立てていない。旗竿を差し込む穴を門にあけていなかった。

自国の国旗にこのように冷たく当たる国はない。少なくとも先進国では。
傍目には、いじけていると取られても仕方がない。
ぼくは、日の丸は、かっこいいと思うし、どう考えても、これからの日本の文化遺産だと思う。富士山と同じように。

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イデオロギーやノスタルジーで日章旗を歯がゆがったり、なつかしがるのではない。
右も左もなく、あたらしい意味合いで、見方を変えてみよう。日章旗は、万物の成長の源、太陽の陽気なエネルギーを象徴していて、明日の日本の活力になると信じる。
発想を切り替えれば、日の丸は、明るく陽気だ。
オリンピックを迎える日本の「おもてなし」のシンボルにしなければ、と考える。

欧米の先進国では、どの国も、国旗はにぎやかな観光資源として、それこそいたるところに飾られている。都市も街角も店先も、旗だらけだ。
国旗のデザインが、もったいぶらずデコレーションとして、別に旗日にこだわらず、毎日、街角で、店頭で、絵ハガキで、土産ものに。

国際スポーツの応援では、日の丸がふりまわされるが、世界のよその国旗にくらべて、日の丸の旗は気の毒な目にあっている。
国旗デザインのオリンピックに出品すれば、美しさとシンプルさで、ダントツの文句なしの世界一だ。
古代中世?から、白地赤丸の旗は、いつごろ誰がデザインしたか不明だが、長い古い歴史がある。
戊辰戦争では、錦の御旗を掲げる官軍に対し、朝敵側の彰義隊、白虎隊など幕府軍は日章旗を旗印に戦ったという。最大の不幸は、先の戦争に巻き込まれ、戦意高揚のシンボルとされたことだ。
敗戦後1945年GHQマッカーサーの指令で、日章旗の掲揚は、原則禁止された。1949年に解除されたが、軍国主義につながる、なにもかもが、否定された大混乱で、ぼくは覚えていない。

先の戦争が終わって70年、日の丸の旗を、イデオロギーの呪縛から解放し、世界から人を招きもてなす、よその国の旗のように、この国のすみずみで明るく元気に働いてもらおうではないか。世界に自慢できる旗のデザインだ。せっかくの文化遺産、活用せねばもったいない。

投稿者 nansai : 14:17

2013年12月16日

十二月十六日
ぞろぞろと新旧取り混ぜて、年賀状図案を並べました。東寺の終い弘法市のように。

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これも馬である。干支にちなんでパソコンで、べっぴんな馬を描いた。チェコの絵本作家(八五歳のおばあさんだが)の展覧会(京都伊勢丹)で刺激を受け、鮮烈な色彩とタッチのヒントをいただいた。

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東寺縁日の終い弘法市にならって、歳末には、年賀状の図案をここにならべることにしている。
パソコンで描くぼくの賀状図案は、干支の動物たちにちなむパズルだ。
テーマは十二年たつと、また振出しにもどる。また、馬か。いきおい似たようなアイデアになる。またワールドサッカーの選手に登場させることになる。

さあて、十二年前は、どんな年だったのか。

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ここに並べたのは、2002年のリバイバルだ。
アーカイブをひっくりかえしてみると、「さあ来い,新年」と勇ましい。緊迫した世界情勢だったが、サッカーをテーマにした。
二〇〇一年、アメリカで九・十一同時多発テロ。皇室では愛子さんが誕生。年が明けて、サッカーのワールドシリーズが日韓で開催。小泉首相が初の訪朝。

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ぼくの年配になると、年賀状を出す先が年々減ってくる。それも急速に。
一足先に、「喪中につき」辞退のしらせが来て暗然とすること、しばしばである。「新年初心」などと、胸張るのも、カラ元気じみてしらけてくる。あっけらかんと陽気なクリスマスカードと違うところだ。

で、東寺弘法市の露店よろしく、新旧とりまぜて、アットランラムにならべておく。

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つぎのは、骨董価値がある。年賀状ではなく、全ページの年賀広告。はるかに遠い昭和の御代に本邦初めて?のカラーテレビがデビューしたころにさかのぼる。おめでたいコピーは、謹んでぼくが書いた。
さすがプロのイラストは絶品である。

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ここ十年、年賀状の売れ行きがはかばかしくないとあってか、郵便配達さんにまで、はがきのノルマがおしつけられているらしい。ノルマを達成のため自腹を切って、金券ショップへ流れることもあるときく。


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なにせ、はがきサイズの紙きれが一枚50円で売れるのだ。
六億円の宝くじがあんなに人気なのだから、年賀はがきも、出す人にも当たる(ひと工夫いるが、ここが大事)「初夢ダブル◎タカラ舟クジ」はどうだろう。

はがき一枚で日ごろのごぶさたを謝し、あらためて御縁を確かめ、福を分け合っておめでとうと、当たれば、春から縁起がいいのだが。

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投稿者 nansai : 14:24

2013年12月10日

十二月八日
なぜ始めたのか。なぜ妥協策に切り替えなかったのか。300万人もの命が救えたのに。そして、また。

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昭和16年、十二月八日未明、日本海軍はハワイ真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まった。
なぜ、とだれも思うだろう。謎。石油資源のない小国が、どうして石油大国に対して、一か八か、勝ち目のない戦いを挑んだのか。供給の80%も相手国に依存していたのに。

歴史は、史料に基づいて、教える。いま、膨大な資料が公表され始めている。
あの戦争は、直接には、軍部が牛耳っていた資源のない小国が、軍艦、軍用機を動かすエネルギーをめぐっての開戦だったともいえる。石油がなければ軍艦は動かせない。航空機も飛ばせない。戦力の差は動かし難い。対米戦は慎重論も、もちろん多かった。
備蓄はとぼしいが、座して死を待つよりは、いまのうちに決戦に出て局面を打開しようという海軍内部の対米強硬派立案の作戦が前々からすすめられていたのだ。

海軍は陸軍に押し切られたとも、慎重論が多かった当時の幕僚が、戦後もらしている。
海軍中枢では、内乱のおそれが危惧されていた。もし撤兵など米国に妥協したら、陸軍と右翼がたちまち内乱を起こすに違いない。そうなれば、戦えないというのが、上層部の脳裏にあった。以上は、「海軍反省会」で当事者が述懐したカセットの記録から。
加えて、他力本願。ヨーロッパでは同盟国のドイツの勝利がプラスすると、陸軍の強硬派は、対米関係を楽観的に見ていた。

当時の日本の指導者層は、米国からの石油の禁輸の打開策として、ならば南進して蘭印(今のインドネシア)の油田を確保する、という戦略をとり、まず仏印(ベトナム)に兵をすすめた。これが米国の対日禁輸の引き金となる。まさかと日本側は予想もしていなかったという。しかし、日米交渉調停の条件としての中国本土、仏印からの軍隊の撤退を拒否し開戦へ。

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冷厳な結末は、4年後の昭和20年の無条件降伏となる。大日本帝国は、昭和前期から数えれば三百万人のかけがえのない人命と、海外資産のすべてを失った。
終戦どたんばの国家方針では、大東亜共栄圏の建設という大義は露と消えた。目の前に迫った連合軍の本土上陸を阻止し、一億の国民が玉砕してまでも国体を護持せよ、というものだった。

「戦争に負けているということは国家機密だった」
と映画監督の山田洋次氏は、朝日新聞に語っている。
「ぼくが子供だった頃、日本の軍隊は負け続けていたのだけれど、新聞やラジオは勝利したという報道ばかり。沖縄まで占領されていながら、まだ日本は勝てると信じていた。」ぼくは山田監督と同年輩である。
今の若い人には信じがたいだろうが、ぼくら国民は、敗戦するまで、超ど級戦艦大和と武蔵の沈没も、日本の誇る連合艦隊の壊滅も、秘密のベールに隠されて知らなかった。戦艦大和の写真も名前も、極秘だったから。

歴史にイフはない。
戦争は、国是にもとづく国家プロジェクトだ。
昭和16年、このリスキーな賭けに「やってみなければわからぬ」と踏み込んだのは、大日本帝国という国家の指導者だ。責任は問われずじまいで、今日におよんでいる。
あれほどの未曾有の惨禍を未然に予測し回避するためには、国の指導者は身命を賭して、国土と国民を守らねばならなかったはずだ。国民の生命を守るための次善、三善の妥協策の選択肢は、多々あったといわれている。中国からの十万の兵士の撤兵がカギだったとも。

いつの世にも、時の政府が決める国是や国家プロジェクトは、はたして将来にわたって国益にかなうかどうか、あやしいものだ。日本独自?のグループシンキングは、発言責任がはっきりせず、反対論がだしにくい。開戦も降伏も、重大決定の座の「空気」に左右された。

日本の原子力行政も、まったく同じ経緯をたどっている。袋小路に迷い込み、立ちすくんでいるように見える。政府は、無知なぼくら国民に原子力の問題の重大さを知らせないままに、福島事故を迎えた。失敗を隠し続けたところが、太平洋戦争の経過ときわめてよく似ている。

この国は地震多発国である。
原子力発電所の安全と使用済み燃料の地下埋蔵には最も適していない国土である。エネルギー政策を政府の既定方針のまま進めてよいはずはない。

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ずいぶん前から、小泉元首相は講演会でほえていた。
「核のごみ処理場がみつからないのなら、原発は進められない。使用済み燃料のゆきどころがなければ、原発ゼロに向かわざるを得ない。代替エネルギーの開発に いますぐ政府は舵を切れ」と。

原発再稼動をすすめようとしている首相官邸は渋い顔で黙殺をきめこんでいる。

この国では今もって、核のゴミの最終処理場がない。
狭い地震国で引き受ける自治体がどこにもない。将来も、めどがたたない。小泉氏は、そこをついた。
核燃料の最終処理法は、結局、地中深く埋めることしかない、「地層処理」というらしい。国土のどこに穴を掘って埋めるか、他の国も苦慮している。

原発建設の前に解決すべき大前提が、核のゴミの捨て場所をどこに決めるかだったのだ。国土が狭隘で活断層が縦横に走る地震国日本では、最大の難関である。で、しかたなく先送りされた。
原発は「トイレのないマンション」とは、前々からいわれていて、あほにもわかる比喩だなあと感じていた。
日本全国の原発で、現在一万七千トンの使用済み核燃料が身動きできないでいる。
この危険なふん詰まり状況のままだと、これ以上原子力発電所を作り続けるのは無理ではないか。ここまでは、ぼくにも理解できるのだが。

そこは、もちろんえらい専門家たちは、みなわかっていただろうが、処理地の選定を先伸ばしてきた。
国は、極秘裏に(候補地の選定は、国民には秘密なのだ)貧しい自治体を補助金で釣ろうとした。
だが、フクシマ事故で、候補地の住民たちが、ことの深刻さに目覚め、そっぽを向いた。
滋賀県余呉町も、候補地として手を挙げたというから(琵琶湖を水源に頼る下流一円のぼくら住民はびっくり)補助金をちらつかせた政府の原発行政の罪は深い。何を考えているのか。
別の大義リサイクル政策は、巨額の投資は失敗の連続で、普通の国民には将来の見込みは複雑で理解できない。

原発についてのぼくの知識は、ほとんどNHKやBBCなど、国内外のテレビのドキュメンタリー番組から得たものだ。いまは、NHKテレビだけでも、日本以外の各国が原子力とどのように取り組んでいるかがよくわかる。カメラがはいり、映像による現場取材と関係者の証言は、いちばん生々しく理解できる。
(太平洋戦争当時は、メディアも未発達で国民は、情報から遮断され、世界情勢を知る手だてが全くなかった。)
安全策が問題視されない導入時の関係者の本音の証言カセットもNHKは入手していた。

原子力が利用できなければ、代替燃料はなににたよればよいか。
いま、「原発ゼロ」を唱えるのは、国益を損なうと言い切ってよいか。ほかに選択肢がないと言い切れるか。
ぼくの年配になると、前の大戦の未曾有の失敗体験をくりかえしたくないという願いが強い。

原子力利用は、国の大義のもと、自民党政権下、すでに気の遠くあるような巨額な投資をおこなってきて、事実上不良債権化しているとみえる。
いつの時代でも、時の政府の立案する巨額の国家プロジェクトの投資効果は、信用し難い。もう懲りた。
票欲しさのばらまきと不要な公共工事。列島改造論も農業政策もそうだった。族議員のおすダムも堤防も道路も(原発関連も、もちろんそうだ)地元目当てのプロジェクトは、長い目でみると、怪しいと考えてしまう。

微力な納税者で電気料金負担者にすぎないぼくは原子力の未来を語る知見は持ち合わせていない。
しかしだ。
資源ゼロの日本ではあるが、やみくもに燃料リサイクルなどの理想を求めて、あげくの破たんを回避せねばならないと思う。原子力船むつ、六ヶ所村、もんじゅ、今もって成果が危ぶまれる投資の回収はもはや不可能だろう。大義の崩壊は、戦争と同じく、想定外の惨禍をもたらす。

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原子力発電の最終段階は、各国みな同じという。使用済み燃料を地下深く十万年間安全に格納埋設する穴を、国土のどこに掘るか。
地層的にも、政治的にも、不可能としよう。ならば、いまは、将来へ向かって、化石燃料をふくめて、妥協、次善、三善の策をさぐるべきだろう。

世界は資本の原理で動く。エネルギーも同じだ。
環境と効率とのせめぎあいである。国益とは、国として、ペイするか、しないか。
政府は原発重視を打ち出した。
毎日の新聞を開いてみると、社説は脱原発か否かでわかれている。
世界中のエネルギーで利益を上げようとする企業は、資本の論理で、選択肢を模索しつつ、走り出している。商社も海運会社も電力会社までも。

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向かう先は、新しい火力燃焼技術の再開発のようだ。
(資源ゼロの日本は、国をあげてのグローバルな調達戦略が救うことになる)
「福島に最新鋭石炭火力、2002年にも稼働」」東電、三菱3社と」は先月の日経新聞のトップだ。
かつて、福島に、欠陥原子炉「マークワン」を売り込んだのは、アメリカのGEだ。そのGEは、日本の火力発電所に発電能力向上を目指しタービンなど設備更新を提案、さらに燃料電池事業に参入するとある。稼働から30年以上のよぼよぼ火力発電所が対象という。機を見るに敏である。

話題のシェールガスはもちろん石油石炭、燃やせる熱源は、何でも輸入利用する。日本は、国自体が商社となり、有利に世界から買いつける必要がある。そのための物流施設、手段が必要だ。大型の専用輸送船が接岸できる港湾設備は福島でも着工されている。

マスコミでも、化石燃料対原子力は、神学論争のように論じられている。新聞の切り抜きに目を通しただけだが、エネルギーを追う企業は、本能的に、活路を探して走り出しているように見える。

石油危機を生き延びてきた日本の省エネルギー技術力を信じたい。これも単なる神話だろうか。
飛躍的に燃焼効率を高めて、CО2をすこしでも減らす革新型火力発電技術が期待されているという。
自動車の燃費向上であれほどの実績のある日本の技術は、新興国をはじめ世界の発電所でリスペクトされ採用されると思いたい。
新聞によれば、来日中のパキスタンの計画相は、日本には、火力発電の先端である超臨界厚技術の導入や投資を期待すると述べている。

国家の大義、プロジェクトは、いつも最善とは限らない。その逆が多い。

戦争を経験したぼくらの年輩は、大義に裏切られてきた。戦時中、戦後も、いやというほど実例をみてきた。

思うに、齟齬をきたしたプロジェクトには、撤退も妥協もあるはずだ。国は、メンツにこだわらず、ひろく世界の新たな知見に学び、次善三善の策を土壇場まで探すことが為政者の義務である。
そして、ふつうの市民、有権者(有識者ではない)に、それをどのように理解させるかが課題であろう。

「核のゴミ捨て場は、安倍さんの地元にしたらどうですか」、と新聞の投書欄に中年女性が述べていた。痛烈。

投稿者 nansai : 15:07

2013年7月22日

七月二十二日 夏がくれば。

「なーつがくればおもいだす」という歌が、ふと口をついて出てくるときがある。
さわやかな尾瀬の朝を、ぼくは知らない。
思い出すのは、昭和二十年のくそ暑い夏だ。

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ぼくにとって、夏はトラウマだ。旧制中学二年生だった。なにもわからぬうちに、授業が停止され、全国の中学生は、工場に、陣地構築に狩りだされた。勤労奉仕でも、ボランティアでもない。
せまりくる本土決戦にそなえて「決戦非常措置要綱」を政府が閣議決定し、学徒動員の強化が組みこまれていた。三月に発令されていたのだ。この法令が、当時のぼくら中学生を動員したことを、くやしいことに、最近ウイキぺディアで知った。


昭和二十年。四月には沖縄守備隊は全滅していた。米軍の本土上陸にそなえて、陣地構築に、といっても、中学下級生は、古兵たちの穴掘り作業の補助要員である。本土西端の海岸線にそう山間に、機関銃座の横穴壕を掘るのだ。今思えば、谷間の両側に銃座をアリの巣のように、はりめぐらす計画だったのか。

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鉄筋コンクリートのかわりに、太い丸太を縦に並べるだけ。一発の砲弾で吹っ飛びそうな木製
銃座だ。
もちろん中学生には何の説明もなく,士気を鼓舞されることもなかった。暗い穴の闇を照らすカンテラのアセチレンガスのにおいを覚えている。

宿泊は、小学校の校舎を転々とした。授業も補修も訓練もなかった。もはや「学徒」もへちまもない。
空腹、下痢、ノミ、シラミが、やせこけたぼくらを悩ませた、はく靴はなく草履だった。白いシャツは、敵機からの機銃掃射をふせぐために藍色に染めた。
血を吸ったシラミは、藍のシャツの縫い目に、一列縦隊でびっしり並ぶから、ぶちんとつぶすのに発見しやすかった。

宿舎は焼け残った小学校だったから、新聞、ラジオとは無縁。報道管制どころか、途絶だった。沖縄、サイパンも玉砕し戦況の不利は承知していたが北朝鮮状態だった。風の便りの「新型爆弾」も原子爆弾とは知らなかったし、まず原子力の破壊力は、全くの無知だった。

情報からは途絶していて、八月十五日終戦の日も何の音沙汰もなく、ぼくらの作業現場にはラジオがないから玉音放送のあったことも知らされず、ただし作業は午前で終わった。
「終戦」の意味がわからなかった。ひきわけたのかと思ったりした。
「天皇陛下に申し訳ない」と二重橋前で土下座して泣き崩れるようなシーンは、ぼくのまわりではなかった。いまもニュース映画にくりかえし出てくるが。

がりがりにやせこけて体調は下痢で最悪だったが、電灯がついて家にやっと帰れるのがうれしかった。

十三歳の勤労動員は苦痛ではあったが、他校のきびしい例をきけば、ヘのようなものだ。
島が戦場と化した沖縄が最も悲惨だったが、たくさんの中学生が、全国各地で、爆弾、砲弾の犠牲になった。
なんともやりきれないのが、終戦一日前の八月十四日の空襲で、海軍工廠に動員されていた上級生が爆死したことだ。たった一日違いで、あたら有為の若者の命が失われた。大阪の砲兵工廠でも。
すでに無条件降伏をうけ入れた日本に、原爆投下後も、各地で執拗に爆撃を続行した米軍の卑劣な戦略に、いまも怒りを覚える。
ぼくら日本人は、安倍首相をはじめとして、あの戦争の総括をおこたってきた。あまりに多くの戦没者たち300万人の悲惨な運命をリアルに実感してこなかった。

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国は、平穏に生きていた人間の運命を、「東洋平和」「悠久の大義」「国体護持」という、次々に変わるキーワードのような「大義」で、翻弄した。国に命をささげた死者たちを靖国神社に祀る、参拝する、という形式次元の話ではない。
縁没者ひとりひとりの失われた人生に思いをいたさねばならなかったのに。近年の大震災の犠牲者に対するのと同じ敬虔さをもってである。

ぼくら日本人は、安倍首相をはじめとして、あの戦争の総括をおこたってきた。あまりに多くの戦没者たち300万人の悲惨な運命をリアルに実感してこなかった。
「硫黄島からの手紙」は、日本人俳優の出演する異色のハリウッド映画だが、日本側からみたリアルな戦場と銃後のギャップをするどくついている。クリントイーストウッドとスピルバーグが制作している。

アメリカの占領政策もあったろうが、あまりに無謀、無策な戦争の結果、日本の国民と日本が戦争に巻き込んだ国々がこうむった損害に眼をそむけてきた。なにかにかまけて、戦争責任という重い課題を先送りし、あえて正面から向き合おうとしてこなかった。
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戦争を知らない世代の少壮の日本現代史研究者が、つぎつぎにあらわれている。
ぼくたち戦争体験者が沈黙したままつぎつぎと世を去り、かろうじて焼却を免れた資料か、海外の公文書館に保存された資料の解読を通じて、客観的に日本が戦った軌跡を冷静に直視し解析しようとしている。成果に期待したいし、政府与党の国政指導者に学んでほしいと思う。学校で習っていないのだから。

吉田裕(一橋大学教授)は、日本ではいまだに「戦後」がおわっていないという。アメリカの歴史家グラックによれば、いずれの国も、「戦後」は50年代後半には終わり、日本ではいまだに長い戦後が続いていると指摘しているとも。戦争を体験していない世代の吉田教授は、戦争への想像力が欠けている現状に、危機感を感じると、このように述べている。
現在の日本社会では、戦争の現実、戦場の現実に対する「リアルな想像力」が急速に衰弱しているように感じる。知らず知らず、戦争をウオーゲームのような発想と感覚で戦争を観察し論評してきたのではないか。(岩波書店刊 シリーズ日本近現代史6から)

中学二年生が、いじめで飛び降り自殺したことが、マスコミで大きく報じられている。
国家が、国の未来を担うはずの中学生とどう向き合うのか。いじめもさることながら、最悪なのは、昭和前期ぼくらの時代のように、教育界あげて、少年を戦争にまきこむことだ。

夏が来ればくりかえし思い出す。
いまさら、ぼくはなにをいいたいのか。むかしのことを持ち出したい。
76年前の七月が、日本の運命を変えたことを忘れてはいけない。太平洋戦争の起きる4年前のことだ。
昭和12年の7月7日。中国盧溝橋で軍事衝突が起き、泥沼の日支事変がはじまった。宣戦布告もしないままに。

そもそも、当時、なぜ日本の軍隊が、他国の首都北京の郊外に駐屯し演習を行っていたのだろうか。中国軍とは一触即発のガス充満状態にあったのに。
76年前の盧溝橋での軍事トラブルがひきがねとなった。
そして、それから4年後の昭和16年太平洋戦争に突入した。あらためて、虚心坦懐に、歴史書をひも解いてかんがえてみたい。

投稿者 nansai : 14:22

2013年6月24日

六月二十四日
いいぞ、マートン! 起死回生のホームランや。(なに?ことしから飛ぶようになったボールのせいだと? うそやろ。)

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日本は、全く平和の国だなあ、と思う。笑えてくる。
ようやく沈静化したが、こんな多難な時期でも、突然飛ぶようになった野球のボールで、マスコミは大騒ぎだ。
ことしプロ野球でホームランが増えたのは、統一球になって飛ばなくなっていたボールが、なぜか、急に飛ぶようになったからだ。ボールを変えるのなら、密室でこそこそ決めるとは、けしからん。コミッショナーは責任をとれ。
大新聞の社説までが、とりあげた。
「この隠し球はアウトだ」

ウオールストリートジャーナルまでも、つぎのように、皮肉混じりに取り上げている。取り上げ方がおもしろい。
「東京市場が10%急落した夜、NHKは10分も費やして、このベースボールスキャンダルを報じた。」

横浜DeNAのトニーブランコ(32歳)は、四月に14本も本塁打した。日本のプロ野球では、これは、前代未聞の記録だ。おかしい、といぶかる声も聞こえた。
この時点でホームランは、昨年に比べて60%増えていたのだ。

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「ことしは、ボールがよく飛ぶ。打球の音と球のあがり具合いが違う。打球の速さも。」
と、四月には楽天のシマ捕手は、朝日新聞に取材されて答えている。
ネットでも「統一球」は廃止されたのか、の声があがっていた。

選手会の質問にも、なぜか、プロ野球機構は、なにも変わっていないと回答。
ひとのいいNHKの無難な報道は、ホームランがよく出ているのは「2011年に導入されたボールに強打者たちがなれてきたせいだ。」

そもそも「統一球」とは?
ぼくは知らなかったが、三年前、日本のプロ野球で、なぜ統一球の採用が決められたのか。ぼくなりに問題を整理すると、こうだ。
ボールの規格は、長い間バラバラで球団の暗黙の裁量にまかされていた。ならば、製造を一社にまとめ、統一しようということになったらしい。
もう一つ。オリンピックやWBCなど國際試合でも、選手がとまどわないような世界統一規格にしよう。ガラパゴス状態から抜け出そうとするのは、それ自体結構なことだ。

で、当時、決められた統一球は、WBCでも通用するように、つまり飛びすぎないように、ボールのコア部分に、あらたに低反発ゴム材を使用したという。統一球は、大リーグの公式球よりも、若干小さく軽い。球の縫い目の盛り上がりも低かった。

ところが、使用すると、予想外の事態が続いた。
ボールが、打っても、飛びがわるいのだ。

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たちまちホームランが激減して、僅差を争う投手戦が増えた。まったく気付かなかったが、統計でみると、2011年には本塁打数が前年の1605本から930本に激減した。どういうことか、統一球は、大リーグ使用球より飛ばなかったらしい。

ロースコアの試合は、よほどの野球通でなければ、退屈である。球場に向かう観客も減るだろう。

最初は、飛ばないのは、選手の打撃技術なのか、力不足なのか、変更の関係者には、原因がわからなかったのだろう。首をひねりながら、二シーズンが過ぎた。

認めたくはないが、どうも日本人選手の筋力では、このミズノ製の統一球では、遠くに、早く、飛ばせないことが判明してきた。ぼくの推測だが。

本塁打が出ないと、貧打戦では、観客は興奮しない。動員数が減ってしまう。愕然とした球団経営者側としては、これはいかん、商売にさしつかえると、日本選手が世界で戦う前に、目先の観客動員だ、となったのだろう。たぶん。
なんとかせねばという意見が、おそらくどこかの球団の一部から出されたにちがいない。察しがつく。

そもそも統一規格は、世界に伍して戦える日本野球のためにと、さだめられた。
それが、ホームランがでない、試合が盛り上がらないから、興行成績にひびくから、といって、いまさら統一球を廃止するとはいえない。ひっこみがつかない。世界で戦える日本野球という旗をおろすことになるからだ。
すぐさま統一球を廃止し、以前の飛ぶボールに戻すか、どうか。難しい決断だ。
プロ野球機構の立場からして、いったん制定した統一球を廃止することはむつかしかったのか。事務局がうろたえて独断で再変更できるはずはない。

しかし、背に腹は代えられない。
だから、一部関係者だけが密室で鳩首協議し、なんとかだれにも気づかれぬようボールの反発力を変えて、飛ぶように、メーカーに再設計変更の依頼をしたのだろう。それも極秘裏に。
うやむやのまま既成事実をまず作ろう、いかにもコソクというか、日本的な 御役所風のことのすすめかたではないか。
まずいことに、変更の有無については、製造元にぜったいに外部にもらさぬよう口止めした。

ところが、だれにもわかるまいと思ったのが、野球が職業のプロたちには、死活の問題だ。選手に気づかれて、ばれた。大騒ぎになった。マスコミも食いついてくる。
なぜ、変更を隠そうとしたのか、ふしぎだ。事務局とコミッショナーがつるしあげられた。ぼくには、犯人さがしと責任ととりかたはどうでもいいことだが。

ことし、ぼくら普通のノーテンキな阪神ファンは、大満足だった。優勝候補巨人に肉薄している。知らぬがホトケである。「統一球」も知らないし、ホームランが増えたことも気がつかなかった。
ことしはマートンもよう打つなあ。昨シーズンは、飛ばないボール対策でスイングをこわしてしまい、不振のどん底だった。立ち直って打撃開眼や。さすがだ、すなおに喜んでいた。

そもそも、ボールが飛ぶ飛ばないは、大リーグでも、日本でもかなり昔からの問題だったという。90年代大リーグでもガンガン、ホームランが出たのは、選手が禁止薬物ステロイドに頼ったということもあった。打撃成績は、選手の高額報酬の増減に直結するからだ。

いまさらいうてせんないことなのだが、もともと日本人は、体力にめぐまれているとはいえない。
体格、筋力のハンデキャップがある。
大リーグのハンクアーロンと王貞治を比べて、野球環境の違う本塁打の世界一を競うのには無理がある。

プロスポーツの流れとしては、サッカーのように、国籍にこだわらず、グローバルに人材を求めるようになるだろう。プロ野球も日本の場合は、限られた外人枠の範囲で、人材を求めざるを得ない。

さらに、出場選手の国籍にこだわるオリンピックやフィファ大会となると、まさにひいきのひきたおしの
愛国ゲームだ。スポーツのはずが、応援も国境紛争のように熱がはいる。

一方で、スポーツは、選手、観客を納得させ満足させるハンデのつけ方が重要だ。体力差にハンデを与えることが考慮にいれられればだが。
スポーツの世界は、ゴルフをはじめ、楽しく競うために、性別、年齢のほか、重量別などハンデをつけて、公平な競技条件を設定し無理な勝負を避ける知恵を出してきた。

かつては、甲子園球場にはラッキーゾーンが設けられていた。
高校野球は、育ち盛りの球児の体調を考慮して、ボールもバットも特別の仕様だ。

いうまでもなく、野球に限らず、プロスポーツは、興行というビジネスである。マーケテイングのノーハウを生かしてなんとか観客をひきつけ永続させねばならない。大きな権限を持つアメリカのプロ野球コミッショナーは、それが仕事だということだ。
さて、飛ぶボール、飛ばないボール。高校野球であれ、プロ野球であれ、どっちがいいか。
世界で共通するきまりか、ローカルな観客というコミュニティで受け入れらるきまりか。あくまでも日本の国籍にこだわる愛国型の競技か。
ものさしは、一つではない。
だからといって、なんとなく密室でこそこそ決めるのは、どうかと思うのだが。

投稿者 nansai : 13:59

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